○サンパウロ市、同周辺、海岸地方=六組合
コチア
ジュケリー
モジ・ダス・クルーゼス
サンパウロ近郊
ジュキア・バナナ
レジストロ
○モジアナ線地方=一組合
イガラパーバ
○アララクアラ線地方=二組合
タクアリチンガ
モンテ・アルト
○ノロエステ線地方= 七組合
平野
上塚第二
プロミッソン
ビリグイ
アラサツーバ
アリアンサ
チエテ
パウリスタ延長線地方=四組合
マリリア
ポンペイア
ツッパン
バストス
○ソロカバナ線地方=三組合
アバレー
パラグァスー
プレジデンテ・プルデンテ
○北パラナ地方=三組合
サンタ・マリアーナ、
トゥレス・バーラス
ロンドリーナ
これらの組合は、当時は──コチアを除き──他地域に進出して行くということはせず、増資積立金のような制度もつくらなかった。
そして、中央会を中心に棉の栽培から精綿、その販売までの事業体制をつくり上げた。
青木林蔵は後年、こう自負している。
「ブラジルの邦人産組は、ほとんど俺が作った」
作っただけでなく、組合間や組合内部に揉めごとが起きると、渦中に乗り込んで行って調停を図った。
総領事館に在っては、産組育成を上司に説き続けた。
一九四〇年、その青木に帰国命令が下った。実は青木は、それまでに何度も日本へ追い返されそうになっていた…というのは彼は予備役の陸軍少尉で硬骨漢であり、上司の総領事が代る度に衝突、ために日本へ…ということになったのである。
その度に、下元健吉が総領事を説得、首がつながっていた。しかしサンパウロ在勤は、すでに十年に及んでいた。
これ以上の延長は無理であった。が、青木は邦人の産組運動に、のめり込み過ぎていた。組合員から感謝され、好かれてもいた。時には乱闘までしたが、それほど打ち込んでいたということであった。
結局、現地退官をした。退官後は中央会の顧問となった。サンパウロの北、古都ブラガンサに居を構えた。この土地が気に入り、しきりに知人たちに入植を勧めた。ために邦人農業者が増えた。
この国に在勤した日本の外交官の中で、邦人間に最も知名度と人気が高かったのは、何々大使でもなく何某総領事でもなく、この青木林蔵である。
脇山大佐
なお、産組中央会の理事長は、一九三七年から脇山甚作という人物が、その任についている。日本陸軍の退役大佐で六十歳であった。
脇山はバストス産組の理事長でもあり、時々、サンパウロへ出て、中央会の仕事をしていた。
中央会に参加していた組合の中で、組合員数で見た場合、コチアに次ぐ規模だったのがバストス産組である。一資料によれば、一九三九年時点でコチア一、六〇〇人に対して、バストスは九〇〇人となっている。
脇山は日露戦争、第一次世界大戦の青島戦、シベリア出兵で出征している。
退役後、佐賀県の郷里に隠棲したが、一九三〇(昭5)年、移住者として家族とともに渡伯した。五十二、三歳であり、当時としては老年であった。
脇山の着伯後の話が味わい深い。ノロエステ線グアランタン駅の近くのファゼンダで、一労務者として働いた…というのである。鍬を握って畑を耕し、大工道具を使って農場主の住宅の階段修理をした。大佐殿が…である。
日本からは恩給が送金されてきていた。にもかかわらず、そんな事をしたのは「ブラジルに移民として来た以上、第一歩から経験すべきである」という考えによるものであった。
一年後、バストス移住地に移った。ここでも鍬を握った。
一九三三年、バストス産組が創立されると、統率者としての経験を買われ理事長に推された。
それから数年後になるが、同家に日本から呼び寄せられた青年がいた。六十数年後の二〇〇五年、筆者はこの人に会うことが出来た。八十歳を過ぎていた。三藤悟入という人で、思い出をこう語ってくれた。
「脇山農場は、組合の事務所までは五㌔ほどあり、大佐は馬で通っていました。天気の悪い日は、事務所からフォードで迎えに…。組合の会議では、出席者がザワつくと、大佐が咳払いするだけで、静かになったそうです」(つづく)