これにはハッとした。この時、気がついたのであるが、同じブラジル生まれでも、戦前育ちと戦後育ちでは顔つきが違う。戦前育ちは日本人的であり、戦後育ちはブラジル人的である。(戦後育ちは、日本の敗戦で、興醒めして、ブラジル人意識を持つようになった)
山下によると、その頃は一世、二世という意識は本人たちにもなく、そういう言葉すら使われなかったという。
だから、偶に日本語が話せない子供がいると、ブラジル生まれでも「ヤーイ、日本人なのに日本語が話せない」とからかわれた。
その頃、やはりポンペイアに住んでいたという人が、二〇〇八年現在、サンパウロで健在であった。星野瞳という名で、邦字新聞の文芸欄で、俳句の選者をしていた。九十歳になるということであったが、至極元気そうだった。
筆者が「山下博美という人を知っていますか」と訊くと、懐かしそうに、こう語った。
「我々が、よくカフェーを飲みに行ったバールが、彼のお父さんがやっていた店で、博美さんは、それを手伝っていましたヨ。おとなしい子で、我々はヒロミちゃん、ヒロミちゃんと呼んでいました。とても、あんなことをするようには見えなかった」
あんなこととは、前記の襲撃事件のことである。事件当時、山下は二十一歳だった。
三人の少年(もしくは若者)の内のもう1人は、三岳久松という。
職業は画家であった。右の二人より、年長で、筆者が会った二〇〇八年現在、九十歳に近かった。
サンパウロ市内で元気に暮らしていた。純で一本気な性格のようであった。一九一九(大8)年、長崎で生まれた。
「子供の頃、支那に渡る兵隊さんたちを見ました。長崎港の近くの広場で、白鉢巻きをし、白い襷をかけて、軍歌を合唱していました。感動しましたネ。自分も行きたかった。ジッとしていられない思いでした」
という。
一九三四(昭和9)年、十代半ばで、家族と共に渡航、キンターナで綿づくりをした。
支那事変が始まると、日本に帰って戦争に行きたいと思った。が、それは叶わなかった。
そこで二十歳になると、バウルーの日本領事館へ行って、徴兵の延期願いを提出、郷里の連隊から送られてくる許可証を受け取った。
以後、それを毎年続けた。三岳は、その許可証を保存しており、取り出してきて、筆者に見せてくれた。紙は黄色に変っていた。
「時が来たら、徴兵検査のため、日本に帰る。不合格だったら、兵隊さんの飯炊きになってでも、戦地へ行く」
と決めていたという。
この三岳も山下、日高とは別行動だったが、やはり騒乱期、出聖して襲撃事件を起こす。二十七歳だった。
この人も、そういう過去を持つようには、見えなかった。
これら襲撃事件の詳細については、別章で取り上げる。
ヴァルガスの新国家構築
次に、ブラジル国内から日系社会へ吹き込んだナショナリズムの熱風であるが。
日本で、大日本帝国憲法が発布された一八八九年、ブラジルでは軍部が政権を握り、帝政から共和制へ国体を移行させた。それまで、国家は皇帝の所有物であった。以後、名目上は国民のモノとなった。
この革命も、すでに記した様に、当時、世界的に流行していたナショナリズムの影響を受けていた。ナショナリズムはブラジルにも流入、歴史の流れを形成していたのである。
その流れの波の飛沫が邦人社会へも飛ぶようになった。
一九一〇年代の社会学者アルベルト・トーレスの日本移民警戒論、同二〇年代の下院議員フィデリス・レイスの日本移民制限法案の国会提出、一九三四年の排日法の成立である。(五章参照)
ところで、共和制による新国家の構築は、現実には遅々としていた。
帝政というタガ(箍)が外れた後、形の上では、地方分権的な連邦共和国へ移行、国名もブラジル合衆国となり、県は州となり、州は独自の憲法と軍隊を持った。
が、結局、広大な国土の中で、様々な勢力が割拠、統一を失ってしまったのだ。
大統領の椅子はサンパウロ、ミナス両州で交代で独占、他州の不満を買っていた。カフェー成金に富が集中していた。国民の貧富の差が極端に広まり、大部分が貧に属していた。上下、所の別なく、国民意識は低かった。