ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(115)

 つまり新しい国家体制を作っても、それにタガを嵌めきれないでいたのである。
 一九三〇年、革命が起きた。政権を握ったゼッツリオ・ヴァルガスが、そのタガを嵌めようとした。
 ここでヴァルガスが選んだのが、彼独自のナショナリズムによる新国家の構築という策である。
 しかし、既得権益を失う勢力が多かったサンパウロ州が二年後共和制の大前提である憲法の制定要求を大義名分に、蜂起した。
 ヴァルガス革命政権は、これを鎮圧するが、憲法の必要は認めて、一九三三年末、制憲議会を開催した。
 その憲法草案には、統一国家構築のための条項が多数盛り込まれた。
 ヴァルガスは急いでいた。
 右の憲法成立後、正式に大統領に就任、中央集権的で独裁的な政策を打ち出した。
 共和制とは反するわけだが、国家の統一のためには、それが必要だと信じたのだ。
 対して、幾つかの勢力が抵抗した。例えば共産党が反乱を企てた。
 ヴァルガスはいずれも制圧した。
 一九三七年には、初の大統領選挙が予定されていたが、ヴァルガスは自らクーデターを起こし、選挙を中止、国会を解散、国政を独裁した。
 一九三四年憲法を廃し、新憲法を制定した。
 さらにエスタード・ノーボ=新国家体制=の建設を呼号した。
 エスタード・ノーボという言葉は、ポルトガルからの輸入語であった。が、ヴァルガスはイタリアやドイツの全体主義に似た理念で、統一国家をめざした。
 そのための策として、国民の大部分を占める労働者を保護する新政策を矢継ぎ早に打ち出した。政府で援助してラジオを普及させ、マイクを前に、電波を通して民衆に話しかけ、国民意識に目覚めさせた。これが奏功、全国の労働者間でヴァルガスの人気は沸騰した。
 その人気に乗って、ナショナリズム色濃厚な諸改革を進めた。スローガンとして盛んに使ったのが「ブラジリダーデ」という言葉である。ブラジル主義とかブラジル精神とかいう意味である。
 要するに愛国心を刺激したのである。
 一方で、障害となるモノは取り除こうとした。その一つが、国内に存在する外国移民社会だった。

 問題児

 ブラジルは、元々はポルトガルを宗主国とする植民地であった。十九世紀に入って独立したが、インヂオとアフリカから輸入される黒人奴隷を除けば、国民はポルトガルからの移住者とその子孫が殆どだった。
 十九世紀半ば、黒人奴隷の輸入が禁止され、代わりに主として欧州から移民が導入されるようになった。その中で最も多かったのがイタリア人である。その子孫を含めて、ポルトガル系に近い比率を占める様になった。
 比率は両国系より少なかったが、ドイツ系もかなり居た。歴史は古く重要な比重を占めてきた。
 その他、多数の民族が移住してきていた。
 従って、ブラジルそのものが、初めから移民社会であった。ただ、すでに何世代にもなっており、血も混交していたから、何系であるかは明確にできない人間も多くなっていた。
 前記した「その一つが、国内に存在する外国移民社会だった」は、世代としてはまだ新しい一世や二世が構成するそれのことである。
 この移民社会には、母国から母国流のナショナリズムの熱風が吹き込んでいた。それを浴びた人々は、母国への帰属意識を強めていた。 
 これはヴァルガスの統一国家の構築計画の大きな障害だった。
 特に問題児だったのが日系社会だった。
 同胞だけの入植地を無数に造り、母国語で会話をし、郷里の風俗・習慣を守って生活している。同胞だけの団体をやたらとつくっている。
 同胞同士で結婚をし、子供が生まれると日本の公館に出生届を出し国籍を取っている。
 学齢期になると、日本語学校で教育をし、天皇への忠誠心、日本への愛国心、日本神国説を植え付けている。
 日本語の新聞を発行し、ポ語の新聞は読まない。いずれ祖国へ帰るつもりでいる。
 これでは、ブラジルの中に極小だが無数の〝日本国〟が存在する様なモノであった。
 因みに当時のブラジルの人口は約四、〇〇〇万、日本人(含、ブラジル生まれの子供)は、その〇・五㌫くらいに過ぎなかった。が、顔つきが違うので、どうしても目立ったのである。

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