国内の枢軸色は極力排除しようとしていた。
つまり外国語学校問題には、ヴァルガスのエスタード・ノーボ構築策だけでなく、米英の在ブラジル公館の工作が加わっていた、と観た方が判りやすい。
なお、日系社会に関する工作は、米公館が主になり、英公館は、それに歩調を合わせるていどの動き方をしていたようである。
一九三四年の排日法の折と同じだ。あるいは、その延長といった方がよいかもしれない。
排日法の折の米の工作は、縄張り荒らしをする日本の排除であった。従って、排除という方針が、その時だけで終わる筈はない。
ところで、この外国語学校の規制に対する日系社会の反応であるが。││
規制の内容に驚いた関係機関の代表者たちが急遽、会合、対策を協議した。
その結果、教育方針を変更すべく、文教普及会の実務の中心人物であった事務長を退かせ、後任に野村忠三郎を据えた。
野村は七年前、三浦鑿の招きで日伯新聞へ入り、編集長として同紙の全盛時代を築いた人物である。普及会へ移った頃は四十歳前後で、日系社会の次代の指導者と目されていた。
彼は、日本語学校に於ける教育方針として、いわゆる伯主日従主義を打ち出し、危機を乗り切ろうとした。
が、時、すでに遅かった。同年十二月、政府は外国語学校に閉鎖令を出したのだ。規制から閉鎖へ、僅か四カ月の間に、これまた不自然過ぎる急展開が起きている。
「規制では弱い、閉鎖を…」という米の強力な要求があった││と筋書きを読むと腑に落ちる。
因みに、この時点でのサンパウロ州内の外国語学校は日本語二九四校、ドイツ語二〇校、イタリア語八校であった。全国では日本語は四七六校だった。
なお文教普及会も、外国人団体に対する規制=外国からの援助禁止=により、活動不能になった。
日系社会は、一九三四年の排日法で、移植民事業に大打撃を受けていた。それから四年、今度は子供を日本人として教育する場を奪われたのである。
この時の親たちの反応を見ると、彼らが如何にその教育に執着していたかが判る。隠れて続けたのだ。一部で、それが起きたのではなく、どこでもそうであった。人目につかぬ場所にある小屋で教えた。あるいは邦人の家でコッソリと…。人が近づく気配があると、あたふたと中止、教師は外で仕事の真似を、子供は教科書を隠して遊ぶふりをした。
因みに、イタリア系の学校では、教科書をイタリア語とポルトガル語で制作した。視学官が来ると、生徒が、ポ語の頁を広げるという手を使った。
当時、ポンペイアに白石静子・悦子という少女期の姉妹が居た。二〇〇九年現在、八十歳前後になっていたが、サンパウロ市内で健在だった。
二人によると、
「日本語の学校が禁止になった後は、毎日、アッチの家、コッチの家と場所を変えながら授業をやりました」
という。
この姉妹は、やがて前記の騒乱期の襲撃事件の折、その同志間の密使をつとめる。その時二人はまだ十代前半であった。
それについては別章で詳述するとして、右の隠れ日本語教育は、付近の日雇い労務者など貧しい住民(非日系人)によって警察に密告されることが多かった。
彼らは、ヴァルガスの指導によって国民意識に目覚めており、そうしたのである。教師たちは警察に連行・留置され、厳しい取調べを受けた。
授業を続けることを断念する処が増えた。しかし続けた処もある。
なお、外国語学校が閉鎖されたといっても、公認の私立学校に於ける一定の外国語教育は、まだ可能であった。ただし一日につき二時間以内、教科書は州学務局の許可済みのものを使用…といった制限はあった。
邦人が、子供に堂々と日本語を教えようとすると、この方法によるしかなかった。が、現実問題として、それが出来たのはサンパウロ市内にあった私立の数校に限られた。
かくの如きで、日系社会には、日本からだけでなく、ブラジルからのナショナリズムの熱風が吹き込んでおり、その背後には、米の工作があった。
米のナショナリズムも吹き込んでいたことになる。
つまり日系社会は、一九三四年の排日法に続いて、またも祖国日本と米とのトラブルの渦潮に巻き込まれていたのである。