ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(118)

 やはり、日の丸の下で…

 三四年の排日法は、邦人のこの国に対する深い失望感を生んだが、それは四年後の日本語学校の閉鎖令で、さらに強まった。しかし、どうすることもできなかった。その無力感と無念さから生まれたのが、
 「我々は、やはり日の丸の下で生きるべきであり、海外へ出る場合は、日本軍と共に行動すべきである」
 という気分、空気であった。
 それは日系社会の世論化した。一九三九年(支那事変中の)日本軍が海南島を攻略すると、同島への転住論が唱えられた。そこではブラジルでの熱帯農業の経験を生かせる筈だ…というのである。
 この海南島への転住論は、あたかも日本政府の内部に、そういう構想があるかの如く語られ、現地視察者まで現れるという熱の帯びようになった。慌てたサンパウロの日本総領事館が、それを否定する談話を出したほどである。
 日の丸の下で…という気分、空気がいかに強かったかは、邦人の帰国が急増したことにも現れていた。
 帰国は以前からあった。小金を貯めて錦衣帰郷の真似事をしたり、適齢期の若者が配偶者探しに行ったりした。
 それが「日の丸の下へ」という気分、空気の盛り上がりによって急増した。
 一家揃って…という場合もあったが、取り敢えず小学校を終えた子供を、日本の中学に入れるため、単身で…ということもあった。
 ほかに、従軍あるいは留学目的の青年たちの姿もあった。
 後年(一九六四年)ブラジル日系人実態調査委員会が編纂した『ブラジルの日本移民』によると。
 一九二七年以降のサントスからの日本人(三等船客)出国数は、年平均で一九三三年までは六〇六人だったが、三四~三八年は一、〇〇七人と急増している。
 さらに一九三九年は一、三九六人、一九四〇年は一、五八一人となった。一九四一年は六月までで八一〇人である。
 このまま行けば、帰国者はさらに増え続け、雪崩現象を引き起こしたであろう。

 同化・永住論

 日の丸の下で…という気分、空気が盛り上がる一方で、同化・永住論を唱える論者もいた。いわゆる文化人、有識者、大学生たちの一部だった。その一人に執筆家の安藤潔、筆名アンドウ・ゼンパチがいた。
 これが邦字新聞などで盛んに「ブラジルに同化し永住すべきだ」と主張、日本式ナショナリズムを「のぼせ上っている」と酷評した。
 ところが、戦後のことになるが、自身が日本へ帰ってしまっている。
 アンドウと同じ論者に、やはり執筆家の古野菊生が居たが、これも戦後、帰国している。その際、後ろめたさの様な心境を、邦字紙で告白していたことを筆者は覚えている。
 元駐アルゼンチン公使の古谷重綱(五章参照)が一九三七年、文教普及会の会長を引き受け、永住を基本とする教育方針を提唱した。
 ところが、日本外務省派遣の同会理事長や総領事館の担当領事が、正反対の意見を主張、他にも古谷説に反対の声が上がった。すると、古谷はアッサリ会長を辞めてしまった。
 リオの日本大使館付き陸軍武官で中西良介という大佐がいた。彼が日の丸の下への回帰熱が高まった一九三九年、多分、その熱を冷まそうとしたのであろう、邦字紙に次の様な私見を発表した。
 「在留邦人は日本という実家から伯国という他家に養子にきた様なもの」
 「移民はブラジル国民となり骨を埋める覚悟で来たと思う」
 「二世以下は純然たる伯国民になるであろう」
 これが邦人の多くを憤慨させた。彼らは養子に来た気も骨を埋めるつもりもなかった。子供を純然たるブラジル人にする考えもなかった。 
 第一、子供を日本人として教育することは、総領事館が文教普及会を通じて推し進めた国策であった。同じ日本政府を代表する駐在武官にイキナリこんなことを言われては、たまったものではなかった。
 抗議を受けた中西は、慌てて自説にアレコレ説明を加えたが、論旨が一貫せず、おかしな具合になってしまった。
 拓殖事業家、新聞人として名の知られた輪湖俊午郎も永住論者であった。彼が一九四〇年、東京で開かれた日本建国二千六百年祭に、日系社会の代表の一人として出席した。ところが戻ってきた時は、海南島への転住論者にコロリと変身しており、世間を呆れさせた。

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