ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(119)

 日系社会では一九三〇年代「定住愛土」を提唱するガット運動なるものが起こったことがある。これも永住論の一つであるが、その運動の推進者の古関徳弥は、一九四一年、休暇を取って海南島の調査に行っている。 
 一九四九年に香山六郎編、斎藤広志執筆で出版された『移民四十年史』には、次の一節がある。(311頁) 
 「ブラジル永住論が理論的には、それを裏付ける確固たるものが何もなかったことをさらけだしたに過ぎない」 
 また、当時は日系の大学生は未だ数が少なかったが、彼らの中に日本第一主義に反撥する声が上がったことがある。大学生といっても、まだ少数であったが、日伯学生連盟という名の集まりを持っていた。
 その中のブラジル生まれの学生の一部が、小冊子を出して一九三八年「自分たちは、まずブラジル人である」という意識を鮮明にしたのである。
 これは、それを読んだ親たちを刺激した。しかし日系の大学生は未だ僅かしか居なかったために世論とはならなかった。

 追い撃ち

 日本語学校の閉鎖に次いで日系社会に痛烈な衝撃という意味で追い撃ちをかけたのが、外国語新聞に対する締め付けであった。
 これも一九三八年の新移民法に基づいて行政化された。行政化したのはヴァルガス政権である。
 外国語といっても、やはり施行の段階では日本、ドイツ、イタリアの枢軸三カ国語の新聞を標的としていた。
 既述の外国語教育と同様、この三カ国語の新聞に対する締め付けの背後にも米英、特に米公館の工作が存在した臭いがする。それは外国語教育の時以上に濃厚である。
 その公館にとって、枢軸国語の新聞は、これまた目障り極まる存在だった。
 日本語の新聞は支那事変での日本軍の破竹の進撃ぶりに酔った様な紙面をつくる。ドイツ語の新聞がヒットラーを称賛し、イタリア語の新聞がファッシズムを声援する。
 それに、それぞれの移民社会が影響される。

 その頃、国際情勢は

 一九三九年七月、米国が日本との通商航海条約破棄を通告。
 支那大陸に於ける日本の軍事行動を妨害するためであった。日本軍は、その軍需物資の多くを米国から輸入していた。
 一九三九年九月、ヒットラーのドイツ軍がポーランドに侵攻。英国がドイツに宣戦布告。(第二次世界大戦開始)
 一九四〇年、日本軍が北部仏印に進駐。
 米英の蒋介石軍に対する軍需物資輸送ルートの封鎖を目的としていた。
 一九四〇年九月、日本、ドイツ、イタリアが三国同盟を締結。
 米国、鉄など軍需物資の対日輸出をストップ。
 一九四一年七月、日本軍、南部仏印に進駐。
 八月、米、石油の対日輸出を全面禁止。
 在ブラジル米公館は、当然、以上の動きを念頭に置いて枢軸国系社会を監視していた筈である。
 さて、ブラジル政府の枢軸国系新聞に対する締め付けであるが。
 まず、外国人の新聞社社長職を禁じた。
 次いで記事のポ語訳欄の併設を義務付け、検閲を実施した。
 新聞社側は、ブラジル国籍の所有者で適当な人間の名前を借りて社長ということにした。
 ポ語欄併設では、ポ語の堪能な記者を雇い入れた。邦字各紙の場合は、日系の大学生を招いて、対応した。その中には、後のコチア産組の会長となる井上ゼルヴァジオ、連邦下院議員となる平田進、同じく田村幸重などが居た。
 しかし、このポ語欄併設は、新聞製作費を膨張させ、経営そのものを困難にした。
 検閲では米英に不利な記事はひっかかった。もはや、背後に米の工作が存在することは明白だった。
 編集者は薄氷を踏む思いであった。
 新聞だけでなく、外国語の出版物も同様の規制下におかれた。
 一九四一年、政府は遂に外国語の新聞、出版物の発行を禁止した。
 邦字紙は七月から八月にかけて、すべて姿を消した。
 この急展開も、異常である。米公館の要求であったろう。ブラジル政府には、発行禁止までしなければならない理由はなかった。
 それまで、邦人は同胞社会のこともブラジル、日本、世界がどう動いているかも、邦字紙を通じて知っていた。それが無くなるということは、盲目同然になることだった。(つづく)

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