日本語学校の禁止で、人生計画を否定された上、この盲目化。
追い詰められた邦人たちに、脱出口は最早一つしかなかった。聖州新報の香山六郎は、最後の紙面に「アジア人はアジアに帰ろう」の社告を掲載、訣別の辞とした。
なお、背後の米の工作についてであるが。
当時、ピニェイロスで暁星学園という私立学校を営んでいた岸本昂一、丘陽と号するクリスチャンが後に『南米の戦野に孤立して』という書物を出版、その中でこう記している。
「アメリカが、南米最大の国ブラジルから、日本人の勢力を駆逐覆滅せんがため、如何に巧妙なる宣伝戦術を用い、ブラジルの民衆をして排日離反に導くための謀略は、蓋し想像以上のものがあった。…(略)…日系市民経営の新聞を何らの理由なくして、突如発行停止し、報道を奪って日本人社会を暗黒ならしめ、謄写版刷りのビラの送付も厳禁せしめて…(略)…」
かくして、日系社会は、四度目の危機に陥っていた。
日系社会、寸描
以下、この時期の日系社会の主なできごとを寸描しておく。
一九三五年、上塚周平がプロミッソンで他界した。五十八歳だった。その歴史的位置づけについては、三章その他ですでに記した。
同年、水野龍は七十六歳になっていた。が、矍鑠たるもので、パラナ州で植民地づくりに動き出していた。
十一年前、クリチーバに住みついて以来、パラナ州政府への接近を図っていたが、親日家のマノエル・リーバス執政官が二、七〇〇㌶の州有地を提供してくれたのである。遂に時節が到来した…ことになる。(執政官=任命制の州政府首長)
が、前年、リオで開かれた制憲議会で排日法が成立、その中には、外国人の集中居住を禁止する項目があった。(五章参照)
執政官や水野が、これをどう受け止めていたかは不明である。多分、施行細則が出たら適宜対処しようとしていたであろう。
水野は、植民地造りのため訪日して、郷里の高知県の海外移住組合との間で、資金援助と百家族受入れの話をまとめあげた。
翌年、その土地(現在のパラナ州ポンタ・グロッサ市)の開拓に着手した。これがアルボラーダ植民地、通称水野植民地である。
水野の身辺には、その名と弁舌の巧みさに魅せられて集まってきた青年が数人居り、これが手兵となった。
植民地には、その一人が先ず入ったが、毒蛇に噛まれて死亡、別の青年が代った。
外国人の集中居住禁止は、一九三八年の新移民法で、融通の利く内容になった。しかし、この水野植民地、結局、入植者は十数家族に過ぎなかった。
水野の植民地造りは、いつまで経っても上手く行かない。
話変わって。
一九三八年五月、香港でブラジルに向かう途中の日本移民ほか四十数人が乗ったランチが一大音響と共に爆発するという事故が起こった。乗船客は海上に吹き飛ばされ、十数人が死亡、残りも重軽傷を負った。
大阪商船の乗船客で、香港寄港の折、上陸して市内見物や買い物をしての帰途であった。
この事故で姉を亡くした人と、それから三十年後、筆者は会ったことがある。医師をしていた。近所の非日系の貧しい家庭の子供たちが列をなして診察を待っていた。無料で受け付けている由であった。
談、たまたま、香港での事故のことになった。年齢からして、医師は少年時代、姉は少女時代であった筈だ。
話している内、医師は突如、喉を詰まらせ落涙した。
三十年も過ぎているのに、そうであることに、筆者は息をのんだ。無料診察は、その優しさによるものであろう。
一九三九年、日伯新聞の三浦鑿が、遂に国外追放となった。四章で記した一九三一年の追放から八年目のことである。追放令は──前回は取り消し令を出した──ヴァルガス大統領が署名していた。
三浦は州警察に逮捕され、欧州向け航路の船に乗せられた。日伯新聞は発行停止となった。(翌年、ブラジル朝日として再刊)
前回の国外追放では、取り消し運動が起こったが、今回は、それも抑えられた。(つづく)