《記者コラム》ブラジルに縁の深い小渕総理秘話=稲門会70周年から見えた日伯の絆

「あんたがもし総理大臣になったら、あの島をやるよ」

 8日夜に開催されたブラジル稲門会創立70周年記念式典・祝賀会(村信政幸実行委員長)で、興味深いエピソードを聞いた。後に総理大臣まで務めた小渕恵三(1937―2000年)の若き日の貴重なブラジル滞在秘話だ。

相田祐弘さん

 稲門会の創立者の一人で最古参の相田祐弘さん(やすひろ、93歳、東京都出身)は、次のような驚きのエピソードを披露した。「小渕さんがあんまり立派な話ばっかりするもんだから、ボクのベンアミーゴ(親友)で、当時サントスにスパ(大規模な入浴施設)を経営して金回りの良かった近藤博之がね、『何偉そうなことばっかり言ってんだよ。小渕、あんたがもし総理大臣になったら、あの島をやるよ』って言ったんだよ。ところが、ほんとになっちゃった」と大笑した。近藤博之さんは相田さんの1歳年上で、もう日本に本帰国してしまったという。
 小渕恵三は1962年に早稲田大学を卒業、同大学院政治学研究科に進学した。在学中の1963年、政治家への夢を胸に秘めた25歳の小渕青年は「生きた政治を勉強しよう。これからの政治家は世界を知らなくてはだめだ」と、世界の実情をその目で確かめるため、当時アメリカの施政権下にあった沖縄県を皮切りに計38カ国を歴訪した(1)
 トランク一つだけの世界旅行であり、現在の〝バックパッカー〟の先駆けといってもいい存在だった。宿泊先はYMCAや海外赴任中の大学先輩の家に泊めてもらうこともたびたびでで、ヨーロッパに入ったころは所持金が底をつき始め、レストランの皿洗いや様々なアルバイトでお金を稼ぎ始めた。

高井昭子さん

 そんな旅の終盤に差し掛かったころに小渕青年は来聖し、在サンパウロ総領事館に滞在先を相談に行った。その際、たまたま大学先輩の高井義信さん(1984年没)が所用のため総領事館で打ち合わせをしていた。偶然、顔を合わせた二人は「それじゃあ、うちに来るか」となり、自宅に居候させることになった。
 高井さんは稲門会で幹事長を長年務めるなど、面倒見がいいことで有名だった。高井さんの妻昭子さんに当時の小渕青年の印象を尋ねると、「2カ月以上うちに居候したね。彼はあんまり酒は飲まなかったけど何でも食べる青年だった。でも、総理になるとは思わなかったよね」と相田さんと顔を見合わせた。
 9カ月の世界旅行中、2カ月以上をブラジルで過ごした。本来はもっと長い期間、世界を回るはずが、解散総選挙となって、出馬するために急きょ帰国。その選挙で初当選、実際に代議士としての経歴を始めた。つまり、小渕恵三はブラジル帰国直後から政治家としての道を歩み始めた。

1989年1月7日、総理大臣官邸にて新元号を発表する小渕官房長官(人事院ホームページ, via Wikimedia Commons)

ブラジル来るたびに人生の転機訪れる小渕恵三

 小渕元総理の次女、優子氏は衆議に当選した後、父の足跡を訪ねるために2004年8月に来伯した際、群馬県人会館を訪問し、ニッケイ新聞記者に《「コーヒー園で寝そべったり、日系人にご馳走になった」。ブラジルの思い出を、よく聞かされた》と父の思い出を語った(2)
 小渕恵三は官房長官時代の1989年1月7日、昭和天皇崩御に伴い明仁親王が皇位継承となり、改元にあたり記者会見で「新しい元号は『平成』」と公表した。「平成」と書かれた色紙の収められた額を掲げるシーンは、長かった昭和からの時代変遷を象徴する場面となり、彼は「平成おじさん」として広く知られるようになった。
 小渕恵三は、1998年6月の日本移民90周年祭には、外相として来伯して記念式典に出席した。その際、1963年の帯伯時に出会った早稲田大学先輩諸氏らがこぞって空港に出迎えた。優子氏は《強行なスケジュールで外務省の誰もが反対したんですが、俺がいくと言って出たんです》と明かした。さらに《百周年には、総理として来るとその時に話した》という秘話も明かしたという。
 不思議なことに、ブラジルから帰った直後の7月30日、第18回参議院議員通常選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本龍太郎総理の後継になった。最初にブラジルから帰った直後に代議士となり、外相として来伯した直後に総理大臣となった。奇縁としか言いようのないタイミングだ。

田中愛治早稲田大学総長のビデオメッセージを拝聴する様子

天野一郎会長が勇退、村信政幸新会長が就任

 「世界各地で活躍する交友の皆さんは、早稲田大学の誇りであり、大きな力です」――ブラジル稲門会創立70周年記念式典・祝賀会が8日(土)午後6時からサンパウロ市ニッケイパラセ・ホテルで開催されて約50人が集まり、日本からビデオメッセージで田中愛治総長はそう賞賛した。
 最初に昨年亡くなった校友、笠原佰(はく)、上原惇彦(あつひこ)、五月女紀夫(さおとめみちお)3氏に哀悼の意を示すため、一分間の黙祷が捧げられた。

天野一郎会長

 稲門会の天野一郎会長の挨拶の後、田中総長、さらに清水享在サンパウロ総領事が同校校歌の一節「現世を忘れぬ 久遠の理想」を取り上げて、日系人がブラジルに貢献をしてきた心情と重なる歌詞との見方ができると語り、「先人への敬意を捧げつつ、今所属する団体や組織の活動を通して、日伯関係のさらなる構築を」と祝辞を述べた。
 ブラジル野球・ソフトボール連盟のリカルド・イグチ理事も、1988年の移民80周年で大学野球チームを招待した歴史を振り返り、「2028年の移民120周年の節目にも大学野球チームをブラジルに招待したい」と述べた。
 早慶戦のライバルであるサンパウロ三田会の大胡俊武(だいごとしたけ)会長は「早慶戦では我々の方が技量が高い選手が揃っているのに、なぜか試合が拮抗して盛り上がることが多い。これは敵ながら早稲田チームに団結と結束がある証拠」と持ち上げた。
 功労者表彰では、同会最古参で長年まとめ役を任じてきた相田祐弘さんに表彰状が贈られた。相田さんは謝辞で「1957年にブラジルにやってきて今年68年になりますが、今になりますと、大変楽しい時間を過ごさせてもらったと思います。その半分以上が稲門会のおかげであったと思います」と感謝した。
 第2部の祝賀会となりケーキカット、秋吉功さんの音頭で乾杯が行われた。「51年前、私がブラジルに来た時は一番若手でしたが、後期高齢者になった今でも〝若輩〟です」と謙遜しながら「ビーバ、サウージ、乾杯」と杯を掲げた。食事歓談となり、アトラクションとしてSonoko & Samuca Duoがボサノバなどを演奏した。昨年の活動報告として野球、テニス、ゴルフの早慶戦の結果としてゴルフだけは勝ち、全敗を逃れたと報告された。

全員で記念撮影

 2018年から稲門会会長を任じてきた天野さんは会長謝辞で「私は勇退して、今日の実行委員長をやっていただいた村信さんは非常に実行力と指導力がある方なので、会長職を譲りたい。7年間皆さんありがとうございました」と提案し、その場で拍手承認された。
 村信新会長から「栄えある稲門会の第6回会長を引き受けさせてもらいます。私は皆さんのような看板学部も出ておりませんし、超優良企業にも勤めていません。好きな言葉に『祭りのない村は滅びる』というものがあります。夏祭りで神輿を担いで、故郷の青年らと飲むような機会がある村は生き延びるという意味です。天野会長から指名されたことは『しっかりイベントを続けろよ』という使命をいただいたと受け止めております。もっと元留学生に入ってもらいたいと思っています。次の80周年、100周年につないでいけるよう頑張ります」と就任のあいさつをし、次の新幹事会メンバーとして幹事長は石岡紳一郎、副幹事長は高野ルシア愛実(まなみ)、幹事会計・フェイスブック担当は近藤祥弘、幹事は浜野嘉嗣(よしつぐ)、野球幹事は川名光太郎、テニス幹事は岩崎耕世(こうせい)、ゴルフ幹事は近藤繁也各氏を紹介した。

新しい幹事会メンバー

妻恵子さんの内助の功で復活の石井千秋さん

 来場していた栗山諭さん(教育学部、90歳、神奈川県出身)は「ボクは『ボート部卒業』。早慶レガッタで慶応が沈んだとき、ボクは第2エイトで漕いでいた」とユーモラスに自己紹介した。
 「早慶レガッタ」は、早稲田大学漕艇部と慶応大学端艇部が競う早慶戦だ。今でも語り継がれているのが1957年の嵐のボートレースだ。当日、大雨で隅田川は荒れ、早稲田は2人が水を掻き出して6人で漕ぐ作戦を立て、慶應は8人全員で最後まで漕ぎ続ける作戦で挑んだ。結果、慶應がリードしてスタートしたレースは、途中で早稲田が8人漕ぎに変えて逆転し、逆に慶應のボートが沈没してしまったというレースだ。
 「大学入ったけど、ボートの練習ばっかりしていた」と青春時代の良き思い出を振り返る。移住動機を尋ねると「JAMIC(日本海外移住振興株式会社の現地法人)で働く友人から、ブラジルは良いぞと聞かされ、力行会に入って1961年にやってきた。同期は4人いるが残っているのは私だけ」とのこと。

石井千秋さん

 当日は、1972年のミュンヘン五輪でブラジル柔道界の初メダルをもたらした石井千秋さん(教育学部、83歳、栃木県)の姿もあった。しばらく体調を崩していたが、妻恵子さんの看病のおかげで復活を遂げた。ブラジルは現在までに五輪で計170個のメダルを獲得しているが、競技ごとで最多は柔道の28個。その最初が石井さんの銅メダルだ(3)

石井恵子さん

 石井さんに「ミュンヘンの時、どうしてあんなに練習練習と踏ん張れたのですか?」と尋ねると、「彼女のためですよ」と隣にいた恵子さんを指さした。すると、恵子さんは「ウソですよ、そんなの」と照れ隠し笑いをしていた。恵子さんによれば「孫弟子の孫弟子にあたる伯人選手が今でもやってきて、報告をしてくれ、柔道談義を良くしている。それが健康の秘訣」とのこと。
 世界にいくつ海外稲門会があるか知らないが、未来の総理大臣を居候させたり、五輪メダル選手を輩出したところはごく稀だろう。(著名人敬称略、深)

(1)https://archive.vn/AClT#selection-57.0-59.40

(2)https://www.nikkeyshimbun.jp/2004/040825-61colonia.html

(3)https://www.olympics.com/pt/noticias/quantas-medalhas-brasil-ganhou-jogos-olimpicos

 

SNS様に

日系社会と縁の深い総理大臣たち

 振り返れば、最後の移民船「にっぽん丸」同船者会の辻哲三さんによれば、麻生太郎元総理大臣(自由民主党最高顧問)は麻生セメントの子会社「JATIC」の社長として1975年頃に1年間、サンパウロ駐在していた。辻さんが同社に勤務していた時代のことで、「麻生さんの方が4歳年上でね、今のように大政治家になるとは、あの当時まったく思いもよらなかった。何人かで一緒に料亭に飲みに行ったこともある。実に気さくな人だった。でも私的な話は一切しない人だったね」と証言した(https://www.brasilnippou.com/2023/230418-column.html)。
 さらに麻生太郎の従兄弟・麻生忠さんは、奥ソロカバナのプレジデンテ・ベルナルデスで農業を経営している(https://www.nikkeyshimbun.jp/2007/071005-71colonia.html)。
 またサンパウロ市には、小泉純一郎総理の従兄弟にあたる故井料堅治さんも移住していた。小泉総理は2004年に来伯してブラジル文化福祉協会大講堂で歓迎会に出席した際、《私にとってブラジルは外国ですが心情的には一番近い国なんです》と説明し、その理由として、小泉首相が十代の時に親交が厚かったいとこの井料堅治さんがブラジルに移住したことを説明。《キャッチボールや勉強を教えてもらった。私にとって兄のような存在。いつかブラジルに行ってみたいと思っていた》と挨拶の中で明かした(https://www.nikkeyshimbun.jp/2004/040916-71colonia.html)。

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