ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(122)

八章

 大津波、襲来(Ⅰ)

 アジア人はアジアへ帰ろう。
 聖州新報の香山六郎が発したこの叫びの悲痛さは、それから八十数年を経た今日でも、我々の心を打つ。
 一九四一年、日系社会は追い詰められていた。
 ところが、そこに空前の異変が起こった。祖国日本が米英に開戦、それによって発生した大津波が襲来したのである。
 その大津波の話に入る前に、まず、この戦争そのものについて、触れておきたいことがある。
 話の舞台は主として日本、米国、支那になる。

 大東亜戦争

 この戦争は、二年前から始まっていた欧州(含、大西洋)でのそれと共に、後に第二次世界大戦と国際的に総称されることになる。
日本の場合は、自国の戦いを指して大東亜戦争と称した。
 戦後、太平洋戦争という呼称が一般的になるが、これは連合国側が、太平洋方面での戦いを指して付けた名である。それも戦後のことで、戦時中に使用されたことはない、とする資料もある。
 日本は太平洋だけでなく、大陸、東南アジアでも作戦を展開したのであり、地理的にもズレが大きい。
 しかるに右の様な具合になったのは、GHQが「大東亜戦争」の使用を禁じ「太平洋戦争」の使用を要求したためという。(GHQ=連合国軍最高司令官総司令部)が、日本が独立、GHQが解体した後も、その使用が続けられ、今日でもそうであるのは何故だろうか。無意識のうちに習慣化してしまったという一面もあろうが、日本人の主体性の無さ、甘さを象徴しているようで、気になる。
 因みに大東亜戦争という名乗りは「欧米諸国の植民地支配からアジアを開放し、大東亜共栄圏を建設、自立を目指す」という大義名分に基づいていた。
 この戦争で日本が欧米諸国の植民地支配からアジアを開放したことは事実である。
 話は変わるが、大東亜戦争については終戦直後、
「日本の帝国主義、軍国主義による侵略であった。日本は悪であった。だから負けた」という主旨の説が出現、以後も長く広く唱えられ続けた。
 この説は、唐突に何処かから噴き出し、たちまち日本の新聞や雑誌の紙面に、溢れるほど掲載される様になった。
 学者、文化人、ジャーナリスト、教育家たちが、これを根拠に、盛んに政治を論じ社会を語った。
 それは国民の間に浸透、やがて一個の史観として定着してしまった。
 しかし不自然であった。
 歴史上の重大事件、特に近代に於ける戦争は、その多くが複雑な要素が無数に絡み合って起きている。しかも表面に出てこない要素も少なくない。
 従って、その史観は長い歳月をかけた調査・研究の後、始めて形成し得るものである。
 その無数の要素が殆ど公開されていなかった終戦直後、突如、完成された一個の史観として出現したのは、明らかに不自然であった。
 さらに、歴史研究は人文科学の一分野である。
 科学の世界に善とか悪とかの基準は存在しない。持ち込んでもならない。
 そういう重大な欠陥があったためであろう、世の中が落ち着くにつれ、右の侵略史観は、次第に疑問視され、かつ説得力を欠くようになった。
 しかも、その欠陥に気づいた人々により調査が進むに従い、新しい事実が次々と発掘され、侵略史観は、政治的目的による創作であることが、次第に明らかになった。
 対して、侵略史観の持ち主の中には、自説に固執、それに相反する説には、感情的に反発するという異常性を剥きだしにする者もいた。
 彼らはいわゆるインテリであった。そのインテリが科学の世界に、善悪だけでなく、感情まで持ち込んだのである。
 いうまでもなく、これは絶対に否定されるべき行為である。が、それをやってしまった。これが却って疑惑を招いた。(裏に何かあるのではないか?)と…。
 しかも彼らの言動には自国、つまり日本に対するマゾヒズムの臭いすら濃厚に漂っていた。これは不気味さすら感じさせた。自虐史観という言葉が生まれたほどである。
 この自虐史観の噴出は、終戦直後、GHQが日本人に贖罪意識を植え付けるためにやった洗脳工作であったという。前記した政治的目的による創作のことである。
 その洗脳工作のため、GHQは全国紙の総てに、そういう主旨の記事を連載させた。ラジオでも放送させた。
 この言論指導は徹底していた。

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