日本人のインテリを何千人と雇い、同主旨のことを書かせたり、話させたりした。高い報酬が支払われたようである。
これはインターネット(Microsoft Bing)で検索した資料に出ていた新説である。
(なるほど!)と思わせる内容である。そういうことであれば、前記の不自然さが消える。
自虐史観の持ち主が、新説に感情的に反発したのは、自分たちが買収されていた事実が露見することを恐れたためという説もある。
そういう後ろめたさが無ければ、もっと冷静に反論できた筈である。
後述するが、右の新説は、大東亜戦争開戦の真実も解明している。
米国のナショナリズム
話を少し戻すと、そもそも、事実上は米国政府の機関であるGHQが、他国のやり方を帝国主義だの軍国主義だの侵略だのと批判すること自体、滑稽である。
以下、五章で記したことと重なる部分が頻出するが。
米はインデアンから土地を奪い続けて建国した。
奪う土地が無くなると、メキシコと戦い、その領土の多くを傘下に収めた。現在の西部南部の諸州がそれである。
さらに太平洋上の島々やカリブ海へ触手を伸ばした。ハワイを併合し、米西戦争によりフィリピン、グアム、プエルトリコを手に入れ、キューバを支配下に置いた。
他国のやり方をあれこれ言える資格はないのである。
それと、近世に於ける戦争は、前章で記した様に、ナショナリズムの観点から捉えるべきである。
そのナショナリズムによって、米はアジアでは、支那にも本格的に進出しようとした。支那は巨大な市場であった。
米は典型的な資本主義国である。資本主義は、その生理として市場を求め続ける。貪欲に、無限に。
資本家は、そのために政治家を動かす。
政治家は、資本家から資金援助を受けている。彼らの要求には従う。
ただ、支那進出は、米は欧州諸国や日本に比較、遅れをとっていた。その回復に懸命になり、諸々の手を打っていた。
そうした中、一九三七年七月、盧溝橋で蒋介石軍と日本軍が衝突した。支那事変の勃発である。
次いで同年十二月、米海軍の砲艦パナイ号が揚子江を航海中、日本海軍機の誤爆で沈没、死傷者が多数出た。
これは米国市民の対日感情を悪化させた。
同じく十二月から翌年一月にかけて、南京で日本軍が支那の民間人を大量に虐殺したという報が米で流れた。世論は憤激、反日感情が盛り上がった。(大量虐殺は虚報だったが、長く信じられ続けた)
同時期、蒋介石夫人の宋美齢が、支那からのラジオ放送で、米市民に支援を訴えた。これは劇的な成功を収めた。
時の大統領はルーズヴェルトだった。彼は支那の巨大な市場を欲しがる資本家の要求に応えようとしていた。
事変の勃発とその後の
右記の動きは、蒋介石を抱き込むチャンスだった。助っ人として恩を売り、支那を米の縄張りとし、資本家たちの大市場にするのだ。
実は彼は、すでに事変勃発の時点で、日本の侵略行為であると、非難する声明を発していた。
既述のGHQの場合と同じ理由で、米大統領に、そんなことを言う資格はないのであるが、平然とそうした。
ルーズヴェルトは、蒋介石に対する軍需物資の援助を開始した。兄弟国で支那に植民地や権益を持つ英国も、足並みを揃えた。
蒋介石は、この物資で日本軍との戦いを続けた。ただし大軍による決戦は避けた。小規模な衝突を繰り返し、直ぐ撤収する、後を日本軍に追わせるという戦術をとった。
その戦術で、日本軍を広大な大陸の奥地へ、奥地へ…と誘い込んだ。そういう戦争が一年、二年と続き、日本軍の戦線は伸び切り、次第に疲労して行った。
一九四〇年に入ると、米は極めて効果的な手を日本に対して打った。
鉄などの軍需物資の対日輸出をストップしたのである。これは日本には痛かった。その物資で、支那で戦う武器を製造していたからだ。民需用にも充てていた。
日本が使用する鉄の殆どは米国産であった
同年、日本軍は、蒋介石を征するには、米英からの物資援助を阻む必要があると判断した。その輸送路のある北部仏印へ進駐した。
対して蒋介石は、南部仏印に新たな輸送路を造り始めた。(つづく)