ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(124)

 支那事変は、先が見えぬまま長期化しつつあった。事変は、日本にとって重荷になっていた。政府は米国との外交交渉によって解決しようとした。
 米も応じ、一九四一年四月からワシントンでいわゆる日米交渉が開始された。
 この時点では、米も交渉に積極的だった。巨大市場を手に入れることが目的であり、その見込みが立てばよかったのである。
 交渉の結果、日米諒解案なるものがまとまった。手打ちは成るかに見えた。が、日本政府内部の足並みがそろわず、了解案は流れてしまった。
 その後も、交渉は続けられたが、奇怪な現象が発生した。十二月、既述の様に日本が突如、米英に開戦したのである。
平和的解決を求める交渉が一転して戦争になってしまったのだ。
 四月から十二月までの八カ月の間に何かが起こった…のだ。
 何が、いつ、何故?

 陰謀

 さて、先に記した自虐史観を否定する新説によれば、日本の対米開戦は、ルーズヴェルトの陰謀によって惹き起された(!)という。
 この陰謀説を唱える論者は、一人や二人ではなく、次々と現れている。しかも最初は、実は米国に於いてであった。無論、その段階では日本に於ける自虐史観は関係ない。
 それが日本に伝わり、右の新説と結びついた。
 陰謀説の内容を、判り易く筆者流に整理すれば、こういうことであろう。
 「一九三九年、欧州で大戦(第二次世界大戦)が始まった。
 ヒットラーのドイツ軍が、英国など周辺国家を相手に暴れまくった。
 ルーズヴェルトは、この大戦に、どうしても参入したかった。兄弟国である英の側に立って…である。
 しかし米からは開戦できない国内事情があった。
 そこでドイツを挑発し、ドイツから米に開戦させようとした。これは実際に実行された。
 ところが、成功しなかった。
 ために日本を標的、カモに選んだ。日本は挑発に乗って開戦してしまった。それに伴い、日本の同盟国ドイツは米に宣戦布告をした。
 ¬ルーズヴェルトは目的を達した」
 これには少し説明が必要であろう。
 まず「ルーズヴェルトは、欧州での大戦に、どうしても参入したかった」という部分であるが。
 ルーズヴェルトは、一九三三年三月に大統領に就任した。
 当時、米国は一九二九年ニューヨークに発し世界に波及した経済恐慌の後遺症で、大不況下にあった。
 その大不況からの脱出こそ、米国市民総ての新大統領への期待であり要求でもあった。
 ルーズヴェルト自身も選挙時、脱出を公約していた。従って絶対それに成功しなければならなかった。
 成功すれば、歴史に名声を残すことができる。失敗すれば汚名を晒す。
 大不況からの脱出策として、彼はニューディール政策なるものを推進した。
 これは一時、成功するかに見え脚光を浴びたが、一九三七年、大統領二期目に入った頃から、景気は元の水準に戻ってしまった。
 ルーズヴェルトは苦境に立たされた。
 ニューディールに代わる脱出策は、見つからなかった。なんとか見つけなければならなかった。無論、そんな巧い話は奇跡に近い。
 ところが、その奇跡が起きた。
一九三九年九月、ヒットラーのドイツ軍が、ポーランドに侵攻したのである。
 その戦火はたちまち欧州全域へ拡がった。ドイツは次々と周辺国を制圧した。翌年半ばには、反独側は英国のみが戦いを続けているに過ぎなかった。
 しかし、その英国も苦戦していた。首相チャーチルは、兄弟国である米の参戦を渇望した。苦戦から逃れる道は、それしかなかった。
 彼はルーズヴェルトに、強く参戦を求めた。ルーズヴェルトは、それに飛びつきたかった。
 戦争は膨大な軍需物資を消費する。参戦すれば、米国はそれを生産することになる。大不況から脱出できる。
 彼の背後にいる資本家たちが、それを強く求めていた。
 ここまでが前記した「ルーズヴェルトは、欧州での大戦に、どうしても参入したかった」理由である。
 次に「しかし米からは開戦できない国内事情があった」の説明である。
 当時、米市民の間では第一次世界大戦で余りにも多くの若者を失ったという苦い後悔から厭戦ムードが極めて強かった。
 上下両院議会は世論に忠実であった。開戦には、その議会の承認が必要である。(つづく)

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