ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(126)

 するとルーズヴェルト、そして交渉を担当していた国務長官ハルは、より強硬な条件を出して来るようになった。
 日本側は、その豹変ぶりに驚いたが、何故そうなのかは判らなかった。が、交渉を諦めなかった。
 しかし、ルーズヴェルトとハルの反応は、冷淡そのものであった。
 彼らは、この段階では、日本に開戦させるため、依然その腹を隠しつつ、挑発の度を強めていたのである。
 日本側は、それに気づいていなかった。必死になって交渉を続けた。結果は同じだった。日本側が新提案を出すと、米側はまた、より厳しい要求をしてくるのだ。
 日本の外務省は、その意外さに驚き苦悩し、軍部は怒った。
 その怒りこそ、ルーズヴェルトとハルの狙いだった。(もっと怒れ、もっと怒れ)と挑発を続けていたのだ。
 日本政府そのものに堪忍袋の緒を切らせようとしていたのである。
 やはり八月、ルーズヴェルトはチャーチルと大西洋上で会見した。その時、こう言ったという。
 「私は決して宣戦布告をするわけにはいかないが、戦争を始めることは出来る」
 自信が滲む表現である。日本を後一歩のところまで追いつめているという読みがあったのであろう。
 十月、日本では近衛内閣が総辞職、東條新内閣が発足した。
 新内閣は、日米交渉と並行して、遂に、開戦準備を進めることを決定した。堪忍袋の緒に手をかけたのである。
 その報を米政府は、豊田外相からワシントンの日本大使館へ送信された暗号を解読することによって知った。
 ルーズヴェルトとハルは顔を見合わせてニヤリと笑ったであろう。
(敵は罠に嵌まりつつある)と。
 しかし日本代表団は、なおも交渉を継続しようとした。
 これにルーズヴェルトはトドメの一撃を放った。十一月二十六日、国務長官からいわゆるハル・ノートを日本代表団に突きつけさせたのである。
 内容は、外交文書であり、その翻訳文をそのまま転載しても、判りにくい。重要な部分だけ意訳すると。
 石油の禁輸解除の条件として、
〇日本軍が支那、仏印か
ら全面撤収する。
〇支那に於ける蒋介石の政権以外の政府を否認する。
〇三国同盟を実質破棄する。
 …などを要求していた。
 二番目の項は、当然満州国政府の否認も意味した。
 日本にすれば、これほど無茶で無礼な要求はなかった。受け入れることなど絶対にできなかった。
 軍部は激怒し、外務省は絶望した。
 しかしルーズヴェルトもハルも、それを承知で、そうしていたのである。もし日本が受け入れたら、二人はガッカリしたであろう。
 ハル・ノートが突きつけられた直後、日本海軍連合艦隊の機動部隊が、択捉島ヒトカップ湾を真珠湾に向けて出撃した。
 ワシントンでの交渉が妥結すれば、作戦を中止、引き返す予定であった。
 しかし日本政府は十二月一日、開戦を決議した。堪忍袋の緒を切ってしまったのである。
 機動部隊は、ハワイを攻撃した。
 以上の経緯からみても、開戦は米の挑発によって、特にハル・ノートによって決まったことになる。
 ここで問題は、そのハル・ノートである。ノートとは覚書のことであり、冒頭に「厳秘、一時的にして拘束力なし」と記してあった。
意味不明である。
 こういう文言を使用するという、そのこと自体が胡散臭い。
 が、日本側は、これを米政府の最後通牒と受け止めてしまった。
 しかし、最後通牒なら、大統領以下全閣僚の名で正式文書として渡すべきである。
 また、これだけ厳しい内容の要求をするなら、当然、上下両院の承認も得るべきであった。
 しかし、日本側は、そういう怪しげな部分を究明することはなく開戦を決定してしまった。
 米側の仕掛けた心理戦に敗れたという一面もあったであろう。
 要するに、日本は交渉によって問題を解決しようと必死になっていたが、その必死さを逆手にとられた、という筋書きになる。
 日本側は、在ワシントンの代表団も、東京の政府閣僚も、軍部の中枢も、騙されていたのである。
 その一人で陸軍軍務局長だった武藤章は、戦後A級戦犯として処刑されたが、獄中で手記を残しており、その中で、こう記している。
 「私は日米交渉の経緯を考えて米国に一杯食わされた感じがしてならない」
 その通りだったのである。
 武藤は、こうも記している。(つづく)

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