ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(127)

 「私は当時考えた。もし四月以来の日米交渉がなかったら、事態が同一に悪化しても、開戦の決意はなかなかむつかしい事であったろう」
 交渉などしなければ戦争は避けられたかもしれない、という意味にもとれる。
 さて、開戦である。
 この時、日本の外務省は決定的にして歴史的なヘマを犯した。宣戦布告文書の米政府への手交を遅くらせてしまい、真珠湾攻撃に間に合わなかったのである。
 これは、ルーズヴェルトにとって、期待もしなかったプレゼントになった。
 日本が卑劣な奇襲をしたことになったからである。
 この卑劣さは、米国市民を激昂させた。厭戦気分は吹っ飛んだ。世論は開戦支持一色に染まった。当然、上下両院は米軍の対日開戦を承認した。
 米市民、特にその殆どを占める大衆の心理は、こうした場合、共通していた。
 それは当時、彼らの最大の娯楽であった西部劇によく表現されていた。 西部劇のストーリーには共通したパターンがあった。
 主人公と悪役が登場、対立する。その対立の度が緊迫感を増す。
 クライマックスが最後の決闘シーンである。悪役が、先に腰の拳銃を抜く。対して主人公は電光石火、自分の拳銃を抜き、悪役を撃ち倒す。観客は、これに大喜びする。
 米国の大衆のモラルでは、先に拳銃を抜いた方が悪なのである。しかも、そこに至る過程で、悪役は卑劣な真似をする。
 米の大衆は、それと大して変わらぬ感覚で戦争を観ていた。
 ルーズヴェルトにとっては、日本は西部劇の悪役を立派に演じてくれた。特に、宣戦布告の遅れの卑劣さなど、期待もしなかった素晴らしい悪役ぶりだった。
 彼は叫んだ。
 「リメンバー パールハーバー」と。
 なお、この開戦直後、ドイツは米国に宣戦を布告した。
 かくしてルーズヴェルトは、当初の願望の欧州だけでなく世界的規模の戦争へ参入することができた。

 証言

 日本開戦のルーズヴェルト陰謀説は、米国ではかなり古くから存在していたという。が、長く表面に出ることはなかった。
 以下はインターネット(Microsoft Bing)で検索した資料だが。
 その陰謀説の論者の中にハミルトン・フィッシュという人物がいた。
 一九二〇年から一九四五年まで下院議員を務めた。ニューヨーク州の選出で共和党のリーダーであった。
 彼は開戦前、米市民の厭戦ムードの中で、外国の戦争への不介入主義を唱える議員たちの代表的存在だった。
 欧州の戦場に参入したがるルーズヴェルトをひどく嫌い、政敵になっていた。
 そのフィッシュが、日本軍の真珠湾攻撃の翌日に開催された議会では、一変していた。ルーズヴェルトが、
 「米国が誠意をもって対日交渉を続けているさなかに、日本は卑怯にも真珠湾を攻撃した」
 と、対日開戦の承認を求めたのに対し、フィッシュは、それを容認する演説を行ったのである。
 日本の宣戦布告無しの攻撃に、本気で怒っていたためで、
 「不当、邪悪かつ厚顔無恥で卑怯な攻撃」
 と、罵倒した。
 「日本は乱心して、挑発もされていない戦争を始めた」
 とすら言い切った。
 しかし戦後、フィッシュはハル・ノートの存在を知り、愕然として後悔、ルーズヴェルトへの怒りを爆発させた。議員たちは誰一人、米国が日本に、そんな無茶な要求をしたなどとは、知らなかったのだ。
 ルーズヴェルトはハル・ノートのことを隠していたのである。
 フィッシュは、ハル・ノートを、
 「議会の承認を得ない最後通牒」とし、
 「ハル・ノートを突きつければ、必ず戦争になると、ルーズヴェルトは確信していた」と断じた。
 つまり、開戦直後の「日本は乱心して、挑発もされていない戦争を始めた」という彼自身の思い込みは、事実とは逆だったことを認めたのだ。
 フィッシュは、
 「我々はルーズヴェルトの嘘に乗ぜられた」
 「ルーズヴェルトは米国市民を欺いた」
 「その結果、米は三〇万人の死者と七〇万人の負傷者が出た。日本は三〇〇万人以上が死んだ。その責任はルーズヴェルトに在る」と弾劾した。
 フィッシュは「日本では天皇も国政の中枢部も平和を望んでいた」ことを戦後知ったという。
 ここでハル・ノートの冒頭の「厳秘、一時的にして拘束力なし」の文字が気になる。(つづく)

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