あるいは、このノートが表面化、問題化した場合に備えて記した…つまり、内容はハルの仮の提言であり、米国政府の公式の要求ではなかった、と言い逃れするつもりだったのかもしれない。
なお、フィッシュ発言が、埋もれた歴史の中から発掘され注目されたのは、二十一世紀になってからのことである。
真実は闇に…
二〇二二年一~二月現在、YOU TUBEでハラノ・タイムスという動画が流れている。
その動画は
「勝者が歴史を語り、真実は闇に放り込まれる」
とした後で、二〇一二年に米国の経済・歴史学者ロバート・ヒッグス博士が、ある国際学術会議で行った日米開戦に関する講演の内容を紹介している。
以下、長文になるが、その抜粋を幾つか(「」で区分して)紹介する。
「多くの人は、一九四一年十二月に米が宣戦布告するまで、米はドイツや日本と戦争していなかったと思い込んでいる。実際は、それ以前からずっと戦争をしていた。
それは様々な形で行われていた。
例えば、米海軍は大西洋上で、ドイツのUボートに、英艦船と共にいわゆる警告なし攻撃を行っていた。
Uボートは、米艦への攻撃を控える様に命令され、実際に控えていたにも関わらず…である。
米英は情報の共有、兵器の共同開発、軍事の合同訓練、戦争に関するその他の協力の取り決めを行っていた。
米軍はドイツに対する戦闘行為に於いて、英軍と積極的に協力していた。
例えば、ドイツの戦闘機や潜水艦の目撃情報を英海軍に知らせ、英海軍が、それを攻撃していた。
米はドイツ軍と戦っていた英仏ソに対し、数えきれないほどの方法で軍需物資の提供を行っていた。
米は日本と戦っていた蒋介石にも、軍用機やパイロット、その他多くの軍需物資を提供していた。
米は英、英連邦諸国、オランダと共に、将来の対日共同作戦計画を積極的に練っていた。
もっとも重要なことは、米が一連の厳しい経済戦争を展開、日本を苦境に追い込んだことだ。
米英オランダに禁輸された主要原料を確保するため、日本が太平洋方面の米領や米軍への攻撃を強いられることはよく判っていた」
「作家のジョージ・ビクターの説を紹介する。彼は決して反ルーズヴェルトではなく、その逆だった。ルーズヴェルトを非常に尊敬し、ルーズヴェルトが米を戦争に巻き込むためにとった政策を全面的に支持していた。
彼は『PEAR HARBOR MYTH』という本を書いており、その内容には偽りがなく価値が高い。
以下は、それからの引用である。
ルーズヴェルトは、ある時期から米をドイツとの戦争に導き、小規模の銃撃戦を発生させていた。
それ以降、彼は徐々に米の関与を増やして行った。
ルーズヴェルトは駐仏大使ウイリアム・ブリットに、アメリカの対独参戦は確実だが、そのキッカケを与えてくれる時まで待つと伝えている。
敵が先に発砲したという既成事実をつくるのがルーズヴェルトの一貫したテーマであった。
彼は、日本の方が、ドイツよりも米に対する大規模な攻撃を誘発しやすいことを知った。
米が挑発していないのに日本が米を攻撃するという展開は出来過ぎたシナリオだった。
が、米市民はルーズヴェルトが『日本が自分の反日政策に反発して開戦する』ことを期待しているとは知らなかったので、うまく行った。
日本の指導者が、米と戦えば負ける、悲惨な結果を招くことを知っていたので、必死になって交渉していた事実は殆どの歴史家が知っている。
一方、ルーズヴェルトとハルが、執拗に交渉を拒否していた証拠も出てきている。日本は数々の妥協と譲歩を提示したが、米は、それに対し、さらに要求を強めていた。
『この交渉が決裂すれば、もう戦争しかない』と日本政府が閣議決定したことを知ったルーズヴェルトは、交渉打ち切りを決めた
ビドル司法長官によると、ルーズヴェルトは太平洋方面での事変をキッカケにして、米が欧州諸国の戦争に参入することを望んでいた。
十二月七日の日本による攻撃のおかげで、米は日本への宣戦布告にこぎつけた。
真珠湾攻撃は、長きにわたる一連の事象の結果と考えれば、すべて説明がつく」(つづく)