「一九五三年頃、歴史家ハリー・エルマ・バーンズが一九三〇年代後半から一九四〇年代前半にかけてのアメリカの外交政策に関する膨大な資料を基に、文献を編纂した。
その文献は誰でも読むことができる。第二次世界大戦に於ける米の責任を様々な角度から明らかにしている。それによれば。
ルーズヴェルトは、自国が遅かれ早かれ参戦できる様に、色々な手段を使って狡猾に動いていた。米が侵略者の一方的な攻撃の犠牲になった様にみせかけ、世論を戦争に巻き込む形で。
陸軍長官スティムソンが戦後『我々には、日本による明白な先制攻撃が必要だった』という証言を遺している。
米軍が日本の暗号を解読していたので、日本に開戦の意図があること、真珠湾が含まれることをルーズヴェルトは知っていた。が、ハワイの現地司令官には知らせなかった。攻撃はまさに彼らが長い間、求めていたものだったからだ。
日本の宣戦布告の遅れ
は、ルーズヴェルトにとって好都合だった。騙し討ちと決めつけることによって、厭戦ムードに浸っていた米市民を一挙に好戦ムードに転換させることが出来たからだ。 ルーズヴェルトは一九三七年、ニューディール政策が頓挫するまで、外交には殆ど関心を示さなかった。
それが途中から外交に大きく依存し始めた。
一九三〇年代後半、ドイツが再軍備と領土拡大を積極的に求め始めると、ルーズヴェルトは、英仏と緊密に協力、ドイツの膨張に対抗する策を講じ始めた。
一九三九年に大戦が始まると、米は反独側に対し膨大な軍需物資を供給した。
米の参戦を目前にして、英米の軍部は密かに共同作戦の計画を立てていた。
米軍は英海軍と協力して北大西洋上でドイツのUボートを挑発することで、戦争を正当化することのできる事件を起こそうとしていた。
しかしヒットラーは、その餌に食いつかなかった。ために米は参戦を実現する口実を失った。
一九四〇年六月、スティムソンが陸軍長官に就任した。彼は日本のアジア進出を妨害するため、経済制裁を行うことを支持した。財務長官、内務長官も、それを支持した。
スティムソンは、1九四一年十一月二十日の戦争閣僚会議の後、自身の日記に本音をこう記している。『要は、我々自身を余り危険にさらさず、いかにして彼らを操り最初の一発を撃たせるか…だ』
そして真珠湾攻撃の夜、こう記した。『危機が国民を団結させる形で訪れてくれた」
フーバーも
ルーズヴェルトの前の大統領だったフーバーも、ルーズヴェルトを激しく批判している。
彼は開戦後二十年の歳月をかけて第二次世界大戦の過程を検証したが、その内容は長く公開されなかった。
二〇一一年になって、漸く回顧録『裏切られた自由』として刊行された。その中に次の様な文節がある。
「ルーズヴェルトは、対独戦に参入するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとした」
「日米戦は、対独戦に参入する口実を欲しがっていた狂気の男の願望だった」
「わが国の参戦には、国民も議会も強く反対であった。従って大勢をひっくり返して参戦を可能にするのは、ドイツあるいは日本による明白な反米行為だけであった。
ワシントンの政権上層部にも、同じように考えるものがいた。彼らは事態をその方向へ進めようとした。つまりわが国を攻撃する様に仕向けることを狙った」
大統領だった人物が、二十年もかけて検証しているのだ。信憑性は高い。
フーバーも前出のフィッシュ同様「日本では天皇も国政の中枢部も平和を望んでいた」ことを戦後知ったという。
以上、米国で発表された「ルーズヴェルトの陰謀」史観の一部である。
同主旨の説は、他にも次々と発表されているという。
日本での諸説
次に日本で研究者たちが発表した諸説を紹介する。
やはり前記の検索によるが、既述の自虐史観を否定する著名な学者、評論家、ジャーナリストたちが、開戦は米の陰謀によるものであることを主張している。
以下、諸説の一部ずつを羅列する。
「ハル・ノート、アレは完全なる宣戦布告。日本軍の支那からの撤退については、地域、時期、規模などの条件について、それ以前、八カ月もの交渉が続いていた。その交渉を無視して突如、即時、無条件の撤退を要求した」(つづく)