ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(130)

 「米国は、交渉を続けていれば、開戦時期を望み通り設定できるというメリットもあった。日本側に望みを持たせながら、戦争準備のための時間を稼いだ。最後にハル・ノートをつきつけ、最初の一発を日本側に撃たせることに成功した」
 「ハル・ノートが開戦を意図したものであったことは、ノートを渡した翌十一月二十七日、ワシントンの参謀本部がフィリッピンのアメリカ極東軍の司令官マッカーサーに『開戦近し、警戒せよ』と打電していることからも明らかである」
 「四月からずっとやってきた日米交渉というのは、米にとって開戦の準備のための、時間稼ぎ以外の何ものでもなかった」
 「ハル・ノートは外交史上、稀に見る挑発であった。東條内閣の全員が自存自衛のための開戦を決議した。自存自衛のための先制攻撃は許される」
 「ハル・ノートは、交渉を決裂させて戦争にするため、万事を準備した後、日本側が受諾するはずがない要求をしたものであった。日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとした」
 「十一月二十六日、ルーズヴェルトとその閣僚は、日本に奇襲攻撃をやらせた方が、アメリカの世論を燃え上がらせる上で都合がよいという意見で一致した。結局、暫定協定を捨ててハル・ノートを手渡した」
 「アメリカ歴史学会会長チャールズ・ビアード博士は、著書『ルーズヴェルトの責任』で、彼に日米開戦の責任がある、と明確にした。
 一九四一年十一月二十六日のハル・ノートについてはこう書いている。
 『一九〇〇年以来、アメリカのとったいかなる対日外交手段に比べても。前例を観ないほど強硬な要求であり、どんな極端な帝国主義者であっても、こうした方針を日本との外交政策に採用しなかった』
 またビアードは、こうも書いている。
 『野村忠三郎駐米大使や栗栖三郎特使が日米戦争回避の道を探り、暫定措置を決めて、そこから本交渉に入ろうと懇願しても、ハルは相手にしなかった』
 ビアードは、右のことを、公表された政府資料、報道などを入念に分析して詳述している」
 「東京裁判でただ一人、戦犯とされた日本人全員の無罪を主張したインドのパール博士はハル・ノートを外交上の暴挙と喝破した」
 「フーバー大統領の『裏切られた自由』によれば、ハル・ノートを日本に手交する前日の十一月二十五日、ルーズヴェルトはハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官らを招集した。
 その会議でルーズヴェルトは『問題はいかにして彼らを最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危険にさらされることがあってはならない』と発言した。
 十一月二十八日の作戦会議では、日本に突きつけた十項目の条件につき、ハルは『日本との間で合意に達する可能性は現実的にみればゼロである』と述べている」
 以上の諸説は、雑誌などへの投稿文である。
 が、日米開戦の経緯を総合的に詳しく調査の上、書籍として発表した事例もかなりある。
 その中に、近現代史研究家の林千勝著『日米戦争を策謀したのは誰だ!』がある。同書の紹介文には、
 「戦争を企んだ国際金融家ロックフェラー、好戦家ルーズヴェルト、それにつけこむスターリン、その危険性を見抜き彼らと対峙したフーバー」とある。
 米国人以外にもハル・ノートの過酷な要求が戦争を誘発したという外国人の主張もある。代表的なそれが、前記のパール博士の発言であるが、同博士は「あの様な要求を突きつけられれば、如何なる小国でも武器を持って立ち上がったであろう」という意味の言葉も残している。
 他に、次の様な発言もある。
 英、リトルトン通産相。
 「米国が戦争に追い込まれた、というのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国があまりにひどく日本を挑発したので、日本は真珠湾攻撃のせんなきに至ったのだ」
 駐日英国大使クレーギー。
 「日本の国民感情を無視する甚だしきもので交渉決裂もやむを得なかった」
 最も偉大な大統領か、狂人か?
 ここで我々はルーズヴェルトが、どういう人間性の持ち主であったか、知っておく必要がある。
 彼は一九八二年、ニューヨーク州北部の裕福な家庭に生まれ、州上院議員、海軍次官、ニューヨーク州知事を経て、大統領になった。弁舌が巧みでカリスマ性があった。
 が、裏面があった。
 目的のためなら手段を選ばなかった。
自分に反対する者は、容赦なく切り捨てた。
 その頑固さと冷酷さは、周囲の人々を恐れさせた。(つづく)

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