《記者コラム》ルーラ大統領の謝罪に思うこと=日本移民史の大きな区切り=草葉の陰の先人に改めて報告

日本メディアから「大統領自身は謝罪する気持ちはあるか」と質問され、「ある」と明言したルーラ大統領

勝ち負け抗争の2大原因を分析する

 ルーラ大統領が戦争に関わる日本移民への迫害に謝罪の言葉を口にした。昨年7月に人権省の恩赦委員会が連邦政府として謝罪をしていたが、今回の大統領の動画を見ながら、草葉の陰にいる先人に改めて報告したいとしみじみ感じた。
 ルーラ大統領の謝罪に関して、ブラジル日本都道府県人会連合会の谷口ジョゼ会長に感想を聞くと、「昨年7月、沖縄県人会などが中心になって謝罪申請をした結果がブラジリアの恩赦委員会ででると聞き、一緒に行かねばと決意しました。サントス強制立退きの6割は沖縄系でしたが、残る4割は他県人であり、それを代表する必要があると思ったからです」「ルーラ大統領の言葉はブラジル国家の最高権力者のそれであり、彼が謝罪を述べたことは80年前の不道理な出来事に対して、最終的には正義が行われたことを意味する」と述べた。
 ブラジル日本文化福祉協会の石川レナト会長は「ルーラ大統領が戦争中の迫害に謝罪したことはとても重要なこと。いまさら賠償金などを請求する必要はない。国を代表する人間が謝罪したことでコミュニティとしては十分だと思う。私にとってこの件は落とし前が付いたと思う」と語った。
 終戦直後に起きた、日系社会を二分して血みどろの争いを繰り広げた「勝ち負け抗争」は、戦中の日本移民迫害が大きな原因であったとコラム子は考えている。当時、日本の不滅不敗を強く信じていた勝ち組も、日本敗戦を受け入れていた負け組も、同じ日本人であり、祖国を想う強い気持ちに大差はなかった。
 では何がコミュニティを「勝ち組」「負組」という両極端に分裂させたかといえば、(1)戦前戦中のブラジル独裁政権による迫害や社会的圧力によって起きた集団精神病と、(2)その辛い状況に耐えかねて、フェイクニュースに救いを求めた戦中の棄民心理であったと考えている。

ヴァルガス独裁政権の日本移民迫害と資産凍結令

 戦前移民約20万人の大半は、移民会社の「ブラジルで働けば儲かる」という過大広告を真に受けて、5年から10年でお金を貯めて帰国するつもりで渡伯していた。だが、実際は10年、15年経っても赤貧の暮らしにあえいだまま第2次大戦に突入し、日本移民はヴァルガス独裁政権に敵性国民として迫害され、理不尽な扱いを受けた。
 政府による日本移民迫害の例は数々ある。1937年の14歳以下への外国語教授禁止令だ。日本帰国を前提に子弟に日本語教育していた多くの移民は絶望を覚えた。翌38年12月には全国の日本語学校に閉鎖命令というナショナリズム旋風が吹き荒れる中、39年には日本に引き上げる帰国者が多数出た。だが帰れるのは資金的な余裕がある者だけで、大半には無理な話だった。
 政府命令により、41年7~8月に邦字紙が強制廃刊された。終戦までの5年間余り、日本語世界は暗黒の時代を迎える。正しい情報が何か分からない中で、ブラジル政府による迫害とそれに乗じた一部ブラジル人による差別に苦しんだ。
 そんな1941年12月に真珠湾攻撃が起き、太平洋戦争が開戦となり、米国の根回しでブラジルは42年1月に枢軸国に対して国交断絶をした。同1月に日本語で書かれた書類の配布禁止、公衆の場での日本語使用禁止、保安局の許可なく転居・旅行の禁止となった。通りで日本語を話しただけで警察に捕まるという事態になった。
 ナチス・ドイツはブラジルが敵側についたことに激怒し、潜水艦をブラジル沖に送り込み、伯米間の商船を次々に攻撃して大量の死者と物的な被害が出た。それを補償させるために、ブラジル政府は2月11日に敵性国資産凍結令「大統領令第4166号」を出し、日本政府関連団体や日本人経営民間企業も連邦政府が送り込んだブラジル人監督官の監視下に入った。
 この法令を根拠に、国民に食料を供給するコチア産業組合などの農協関係以外の日系事業体の資産が凍結された。例えば南米銀行、東山農場、東山銀行、ブラジル拓殖組合、ブラ拓製糸、海外興業株式会社、蜂谷商会、破魔商会、伊藤陽三商会、リオ横浜正銀、ブラスコット、東洋綿花、アマゾン拓殖、野村農場などだ。旧日本病院(現サンタクルス日本病院)など、主だった日系の組織や企業が同法令を根拠に日系社会の手を離れた。

1943年7月9日付エスタード紙、サンパウロ市の移民収容所に着いたサントス強制立ち退きの人々

サントス強制退去事件とフェイクニュース

 1942年2月、戦前から日本人街と言われていたコンデ・デ・サルゼダス街でも強制立退きが執行され、5月頃から同胞社会の指導者が次々に警察に拘留されるようになり、6月に差入れなどの救済を行うためにドナ・マルガリーダ渡辺を委員長とする「サンパウロ・カトリック日本人救済会」が活動を始めた。
 42年7月には、日米双方の外交官や在留民を自国に戻す交換船がリオに寄港することになった。ブラジルで敵性国民として弾圧を受けて強烈なストレスがたまっていた日本移民の心に止めを刺したのは、頼りにしていた日本国外交官の一斉退去だった。何の挨拶もなく、煙のように消え去った事実に、移民の多くは「我々は棄民になった」と心を痛めた。
 邦字紙は1941年7~8月に廃刊させられたので、戦中の日本語による記録はほぼ皆無だった。戦争中に日本語情報を得る手段は、大本営発表をそのまま報じる日本の短波ラジオ「東京ラジオ」しかなかった。そこで報じられる戦果を信じた日本移民が、日本敗戦をにわかに信じられるはずもなく、どんなにブラジル・メディアが現実の戦争状況を報じても、そっちこそ〝フェイクニュース〟に過ぎなかった。

終戦直後にばら撒かれた戦勝フェイクニュースのビザ(日本移民史料館蔵)

 そんな戦中の日本人弾圧の中で最たるものが、1943年7月に起きたサントス強制立退き事件だった。ドイツ潜水艦がサントス沖の米国とブラジル商船を沈没させたことから、海岸部にスパイが潜伏しているとみたブラジル政府は1943年7月8日、サントス沿岸部の日本移民6500人とドイツ移民の24時間以内の強制退去を命じた。それまで営々と築いてきた財産を二束三文で投げ売り、置き去りにしてブラジル人に奪われた日本移民は多く、しかもそれを日本政府に訴える手段も方法もなかった。この際、サントス日本人学校も政府に接収された。
 強制立ち退き者をサンパウロ市の移民収容所で支援したのが、ドナ・マルガリーダ渡辺だ。『救済会の37年』(憩の園記念誌、1979年)の中で、救済会創立者の一人で実際に救援に関わった高橋勝さんは立退き者に関して、《戦時下の敵性国人として、人間扱いしてくれない、飲まず食わず、捕虜みたいなものでした》(11頁)、ドナ・マルガリーダも《貧困者や病院や孤児や、はてはキチガイになった人がでてくる、そんな状態の中で、石原さん、高橋さんと三人で働きました》と証言した。

大戦中に発狂した日本移民700人が精神病院に

 救済会の創立総会の同議事録の活動報告で、ドナ・マルガリーダはこう語る。当時の表記のまま記す。《先ず気狂人から申し上げますと、サンパウロにはジュケリーとピリツーバの二病院に七千人からの発狂者が収容されておりますが、その内約一割の七百人は日本人であります。救済会としましては、各発狂者毎に二人の医師の証明書を取り、会が引受人となりまして、警察に申請し、許可が下りましたところで、病院に紹介し、患者を連れて入院させております。入院費は無料でありますが、入院をさせるまでは手続きと費用を要します》(12頁)
 人口比率では1%未満の日本移民が、精神病院の10%を占めている状況は、当時のストレスのひどさを示している。しかも、700人が医師に正式鑑定されていたということは、その20~30倍、数万人が危うい状態だったのではないか。
 そんな邦人救済のために、元外交官の宮腰千葉太らが中心になってドナ・マルガリーダを前面に立てて、本来なら総領事館がする「邦人保護業務」を戦争中にこっそり行っていたのが救済会だった。

戦中は「敵性移民」、戦後は「テロリスト」扱い

 戦争中に日本移民は「枢軸国側の敵性移民」、戦後には「勝ち組テロリスト」として迫害を受け続けた。1946年から63年までは民主的体制だったが、政権とは関係なく、戦中から日本移民を迫害していた政治警察(DOPS)などの公安機関は一貫して存続し、迫害を続けていたからだ。
 勝ち負けテロが勃発した直後の1946年4月、政治警察は1千人以上の臣道聯盟員を、幹部だからというだけで拘留し、多くが刑事裁判にかけられた。その際、警察では天皇陛下のご真影や日の丸を床において、「これを踏めば家に帰してやる」と言われる〝踏み絵〟まで迫られた。祖国への愛国心を持つ事が罪―という時代だった。だが、10年以上経ってから実行犯以外のほぼ全員に無罪判決が下った。
 戦前移民の相当数が戦中戦後の迫害体験に、深いトラウマを抱えていたと想像される。だが1964年から軍政時代が始まり、ただ無念を呑み込んで、墓まで持っていくしかないと諦めたに違いない。終戦後、敗戦で帰れる場所ではなくなった祖国を諦め、ブラジルに骨を埋める決意を固めるまでに10、20年かかった人も多い。
 数少ない戦中の記録を記した出版物は『南米の戦野に孤立して』(岸本昂一著、1947年)で、コロニアのベストセラーになった。だが、これを出版したがゆえに彼は警察に出頭を命じられ、約1カ月間も投獄された。以後10年間も帰化権はく奪や国外追放を掛けた刑事裁判と闘うことになった。
 ブラ拓4大移住地チエテ(現ペレイラ・バレット)では戦後「吉村一家心中事件」が起き、日系社会を震撼させた。《一九五二年六月三日チエテ移住地ノーボ・パライゾで三年間誰ともつきあわず孤独の生活をつづけてきた狂信の邦人一家が、土地係争で裁判所の命令通達に出向いた警察官に突然発砲、撃ち合った末、一家九人(男四人女三人、子供二人)が心中をとげた》(『コロニア戦後十五年史』サンパウロ新聞刊、60年)という事件だ。
 いわく《戦時中移住地が資産凍結令にあい土地を政府に引き渡さねばならなくなった。そのためかこの一家は一九五一年五、六月頃家の周囲に鉄条網を張り巡らし、外界との接触を断っていた。政府のキリダンテ(清算人)は再三土地問題で通達状を差し出したが、手応えがないので警察に依頼して、三日解決に出向いたところ、突然屋内から警察隊に発砲してきた。銃弾が尽きたのをみすまして数刻後、警察が侵入すると折り重なって九人が自殺しておりすでに手の施しようがなかった》(前同)とある。
 同誌には《臣連や国民前衛隊事件は、日本人同士がお互いに信じられないという風潮をコロニアに生せしめ、その不信感から発する悲劇が連鎖的に各地で起こった》(前同)と記されている。
 終戦直後に出されていた臣道聯盟の機関紙『旭新報』を見ると「皇軍が米本土に上陸した」的なフェイクニュースが書かれ、短波ラジオで日本からのニュースを速記したという謄写版刷りのデマニュースも出回った。
 1950年11月20日、五・一五事件の生き残り憲兵中尉で日本陸軍情報部に所属と自称する山岸弘伯を指導者とする戦勝組にはマリリア警察署による拠点への捜査の手が入った。かなりの武器弾薬と60人の検挙という、いわゆる「国民前衛隊事件」も起きた。
 日本では使えなくなった旧円刷を帰国希望の勝ち組に売りつける「円売り事件」、1950年頃には自称「特務機関所属」の川崎三蔵がニセ朝香宮(加藤拓治)を祀り上げて、純真な勝ち組を騙して献金をだまし取った詐欺「偽宮事件」など、戦後の混乱に乗じて勝ち組を騙す数限りない詐欺事件が横行した。
 戦後10年も経った1955年ですら最後の戦勝組、桜組挺身隊が「南方開拓」「日本帰国」との幟を手にしてセー広場など行進するなどして、世間を騒がせた。

昨年7月25日、恩赦委員会のアルメイダ委員長が、宮城あきらさんらに向かって謝罪の言葉を述べる様子

日系社会代表の反応

 奥原マリオさんと沖縄県人会が主導して連邦政府に謝罪申請をしてくれたが、サントス事件や臣道聯盟などの勝ち組組織幹部の拘留者の被害者は、谷口県連会長が言う通り全都道府県からの移民であり、その被害者子孫たるや現在では十数万人と推測される。それだけの家族の物語として、少なからずトラウマが残っている。
 宮坂国人財団の西尾ロベルト理事長は「ルーラ大統領の謝罪を聞いて、私たちの父や祖父がされたことを完全に償うものではないかもしれないが、ブラジル人の皆が同じ気持ちを持ってくれていると思えば癒しがある。我々はブラジル建国や発展に責任があり、より良い二国関係の為に、ルーラ大統領には良い訪日をしてほしいと期待する」と述べた。
 アサイー移住地出身の西尾さんの父や祖父は、大戦中に公の場で日本語をしゃべったからという理由でクリチーバの刑務所に1年間以上収監されていた。西尾さんは「家族の中でもその時のことはあまり語られていない。父や祖父はむしろ『もう戦争の時のことは忘れて、これからブラジルで生きて行くという気持ちに切り替えなさい』と言っていた」という。
 大統領の謝罪は大きな歴史の区切りだ。西尾さんが言う通り、これからはもっと未来志向で考えてもいい。そして現代だからこそ、勝ち負け抗争はフェイクニュースや社会分断の歴史的典型例として、集団社会学や群衆心理学的な視点から研究が進んでも良いのでは。(深)

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