私の回顧録=五十嵐司=(1)

(1)私の生い立ち

 私は1925年(大正14年)の5月18日に当時関東州と呼ばれた租借地の大連市に本社があった南満州鉄道株式会社(満鉄)の満鉄病院で生まれた。その都市は現在では中華人民共和国東北部の南に位置する遼東半島の南端にあり、私が生まれた当時は日本が99ヵ年の権利を持つ租借地であった。
 それは日露戦争の戦後のポーツマス条約でそれまで権利を持っていたロシア帝国から日本へ租借地の移譲がなされたためである。同時に満州の鉄道沿線地域の行政権も与えられていた。旅順港は大連市に隣接しており、日露戦争の歴史の中で陸海の有名な激戦地ともなった極めて重要な港である。
 その後の昭和6年に起こった満州事変の結果、満州帝国として独立し、同時に租借は返還され新しい国の一部となった。新名称を得た新京市(それまでは長春)が首都となったが大連の重要性は変わらなかった。
 1945年、日本は第二次世界大戦の敗北によりすべての権利を失い、満州国は消滅し中華人民共和国に吸収された。しかしながら現在もこの地方は日本の残した工業が発達し中国北部の、最重要な産業地帯となっている。
 父の五十嵐保司は群馬県人で東京高等商業学校専攻部(一橋大学商学部の前身)を卒業後満鉄に勤め、私の出生時は商工課の主任であった(当時35歳、後に課長となる)。
 母末子は東京生まれで日本女子大学家政科の出身、当時28歳で私は第3子の長男、上には1919年(大正8年)10月6日生まれで6歳上の長姉章子と1923年(大正12年)9月5日(関東大震災の4日後)に出生した2歳上の淑子がいた。
 なお、私の5年後の1930年(昭和5年)4月9日には弟勇次が生まれており、姉弟すべて満鉄病院で出生の大連生まれである。皆が父の本籍地であった群馬県群馬郡久留馬村神戸(ごうど)に入籍された。
 大連には父が満鉄を退職し東京に移る1931年(昭和6年)の7月まで暮らしたことになる。
 住居は大連市郊外の今でも著名な海水浴場である星が浦海岸に計画造成された満鉄社員組合の個別建て団地で、水明荘と名付けられた風光明媚の地域であった。
 父は組合の幹部で水明荘の村長の役をする世話役で私たちは父の設計した家で育った。最初の家は漏電による火事で焼失したが、充分な保険金が支払われたため2回目の家はゆっくりとした建坪を持つモダンな煉瓦造りの洋館であった。(つづく)

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