次いで寄宿舎にまで雪崩れ込んで、生徒の私物の日本語の書物や親元からの手紙まで押収、教師を連行した。
警察に着くと、上司に「三歳の子供にまで日本語を教えていました」と虚偽の報告をした。
騒ぎの最中、外出中だった岸本は、翌日、州の学務局へ行き相談したところ、
「政府から日本語の授業の禁止令は出ていないが、今は戦時体制になっているので、教育も含めて行政全般が軍部の指揮下に統一されてしまっており、いかんともしがたい。日本語の授業は見合わせた方がよい」
という回答であった。
連行された教師は弁護士の奔走で、数日後、釈放されたが、岸本は学園を閉じた。
この一件も、たかが小さな学園や子供を相手に、やることが不自然だった。
これは、リベルダーデのコンデ街の場合と同じ目的で、日本人が集中しているピニェイロス、その中でも目立つ暁星学園を標的にした策動と読むと、腑に落ちる。
スパイ説、流布
同時期、北半球の戦場に於ける日本軍の勢いは、依然、盛んであった。
「これは、ブラジル人の日本に対する評価を上げさせてしまう」と、米英の公館や工作機関は焦ったであろう。彼らの策動としか思えぬ不自然な変事が続いた。まず枢軸国人スパイ説の流布である。
半田日誌。
「二月十五日 (河合宅で、シンガポールの英軍が日本軍に降伏したとの報に接し)私はスッカリ興奮して帰宅した」
「二月二十日…(略)… 新聞がぢゃんぢゃん枢軸国の悪口を書き出した。…(略)…この頃盛んに第五列論をかきたてている。…(略)…我々を取り囲む空気が重苦しくなってきた。友だちが遊びに来ても、語ることは戦争の進展と、戦後は 日本へ帰ることである。河合君、鈴木君、江見さん。我々の仲間…(略)…は皆帰国説をなす」
この頃、大西洋上で、ブラジルの商船が二隻、相次いで撃沈されていた。いずれも米国へ軍需物資を運ぶ途上にあった。当時、経済界は米への軍需物資の大量輸出による特需で沸き立っていた。それを運ぶ船を撃沈されたのである。国中が騒然とした。
撃沈したのはドイツ海軍で、在ブラジルの枢軸国人が、米国航路の商船に関する情報をドイツ海軍に無線で通報しているという記事が新聞に頻りに載り始めていた。
この枢軸国人スパイ説に裏付けがあったわけではない。ところが新聞は、そう決めつけていた。
米英が新聞に、そう書かせていたのである。
スパイ扱いされた側は
不気味な気配が身近に迫っているのを感じ取っていた。
半田は、日誌の文面を観ると、以前の永住・同化論は忘れたかの如くである。
まして一般の邦人は元々帰国するつもりだったのだから、誰も熱に浮かされた様に、その思いを口にするようになっていた。
大使・総領事監禁事件
スパイ説の流布に次いで起きたのが、いわゆる大使・総領事の監禁事件である。
岸本書によると、これは、三月九日の新聞報道によって始まった。
内容は「東京のブラジル大使・総領事が警察に監禁され、外部との一切の交渉を遮断され、非常な弾圧と苛酷な取り扱いを受けており、大使館は憲兵によって占拠されている」という要旨だった。
これを各紙が、一斉に特大級の見出しをつけて報道した。
さらに「街頭では、日本非難の声が満ち溢れ、こちらでも報復処置をとれと絶叫の声が上がり、民衆の興奮はその極に達した」と派手な続報が続いた。
が、これは不自然だった。
まず、その大衆扇動式の報道ぶりが作為的だった。何より、日本での大使・総領事に関するニュースの内容そのものが、常識的にありえないことであった。
しかし、直後、ブラジル政府は報復措置として、リオの石射大使、サンパウロの原馨総領事らを、官邸に監禁した。さらに邦人が居住地以外に移動することを禁じた。
この事件は直ちに日本政府に伝わった。
十四日の東京ラジオが、ポルトガル語と日本語で次の様に放送した。
「…(略)…日本の大使、総領事を監禁し、在留同胞に対し禁足をするに至ったことは、まことに遺憾にたえない次第であります。
日本ではブラジル大使に対し、旅館に休養して貰うべく好意的申し入れをしましたところ、大使は日本政府の好意に感謝しつつ、なお大使館内にとどまるとのことでありましたので、大使の意向を尊重し、従前どおりにして貰っております。(つづく)