私の回顧録=五十嵐司=(3)

司夫婦、長男家族、孫2人、次男

 新京郊外の高級住宅地域である城後路の豪壮な理事社宅に住んで私は小学5年生まで白菊に通った。
 日本の学校に比べると校舎や設備など贅沢であったが授業はのんびりしており、満州語((北京官話)の唄を教わったり、地方の伝説の話などを聞いたり楽しかったと思う。
 その頃は珍しい内地の女流飛行士が二人揃っての満州訪問があり、2つの色の複葉機、白菊号と黄蝶号のうち白菊号が名前の縁で私たちの学校に寄贈され校庭の隅に置かれてあった。
 冬になって消防車がその校庭に水をまくと一晩で厚い氷が張ってスケート場になり、先生も生徒もスピードを競って滑る零下20度に達する寒さになるが、三寒四温の大陸性気候で案外過ごし易く、春は紫のライラック、秋は白い花房のアカシアの甘い香りがただよい、広々としたコーリャン畑に真っ赤な太陽が沈む美しさや、風に吹かれて白い綿を散らすドロヤナギ(白楊)、白樺、背の高いポプラ並木の風景は忘れられない思い出となっている。
 5年生の半ばになったとき、父の中銀退職に伴って私たち一家は内地へ帰国となり、中学への進学に備えて以前少し通った誠之小学校へ復校し、丁度5年担当になっていた和泉訓導のクラスに入れてもらった。
 6年生になったとき、渋谷区幡ヶ谷の土地に家を新築中で受験準備もあり、和泉先生の自宅にしばらく寄宿したこともある。
 1級下で5年生になっていた先生の娘さんの清子ちゃんや3年生の順子ちゃんとカルタ取りなどして遊んだ懐かしい日々であった。
 先生は中々の美食家でそのためか、後日最初の訪日(1966年)の時お宅に伺ったら胃腸病で亡くなっており、清子ちゃんは製革業のお金持ちに嫁入りしていて、順子ちゃんは小学校の先生をしているとかで、奥さんにもう少ししたら学校から帰ってくる、逢ってブラジルに連れて行ってくれと頼まれた。

(2)学業

 1938年(昭和13年)麻布中学校の入試に合格し、港区麻布本村町にある同校に通うようになった。この学校も上級校への進学率が高いので有名であるが、余り特徴もない学校であった。
 ただ、明治時代に創立の時は東洋英和中学校と言う名前のミッションスクールで東洋英和女学校と姉妹校であったが、その後プロテスタント教会とは関係がなくなり、そのためか割り合いと自由な雰囲気のある学校ではあった。

最新記事