ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(140)

 母が止めようとして兵隊にとびかかった。すると銃剣で突かれた。モモの部分を貫くほど!
 兵は去ったが、父親が『またやってくるに違いない。今度は殺されるかもしれない』と言うので、逃げることにした。
 すべてをつぎ込んだ棉を捨てて、バラ・ボニータを去った。その時のことを思い出すと、今でも悔しさに身体が震える」
 実際、この話の最中、七十六年も前のことであるのに、中野の形相は憤怒で歪み、コブシを握りしめた両腕が震えていた。 
 右の話の中に州警兵という言葉が出てくるが、州政府の公共保安局傘下の警察の一つである。
被害者のもう1人は木村きよみという。
 サンパウロ州東部、山頂の避暑地カンポス・ド・ジョルドンの近くレノポリスという小さな村に住む八十四歳のお婆さんである。そこを訪ねて行って会ったのは二〇〇三年のことだった。
 きよみは、戦時中、ここの邦人住民の世話役であった木村貞治の長男の嫁であった。
 ブラジルが日本と国交断絶をすると、警官が何度もやってきて、家の中をひっくり返して荒らし、そのままにして引き上げて行った。その度に舅を連行して行った。
 きよみは、その何度目かの時に、警官にポルトガル語で叫んだ。
「見た通り、小さな家だから、何もないということは直ぐ判る。好きな様に調べなさい!」
 その剣幕に怯んだ指揮官が、後で他の警官に命じて後片付けをしていた。この指揮官は質の良い方だったのであろう。
 以下は『旋風吹き荒むジュキア線』という手記の一部要旨である。
 開戦時、サンパウロ州南部、サントスジュキア線の沿線には、沖縄県人が千家族ほど住んでいて、主にバナナを栽培していた。ここでも同種の被害が相次いだ。
 三月八日、ビグアという開拓地の花城清長宅へ突如、数人の刑事が門前からピストルを乱射しつつ入ってきた。子供を含めて家族は失神せんばかりだった。
 花城が理由を聞くと「お前は、日本で軍籍にあった。取り調べる」と家宅捜索を始めた。家具を引っくり返し、めぼしい品物から写真帳、古い小学読本まで押収した。
 さらに花城をサントスの本署まで連行、留置した。二四時間、飲まず食わずであった。留置場の中には〝先客〟としてドイツ人がいた。
 花城は署長の取調べの後、帰宅が許された。
 このほか、十六歳で移住してきた者を、日本で陸軍大佐であったと逮捕したり、バナナを山腹から降ろすために架設した鉄線をアンテナだと言って調べたり、写真機を所有しているというだけの理由でスパイだと家宅捜索をしたりした。
 ある家では、ピストルを出せと要求、戸主が無いと答えると、殴り蹴り、果ては臀部に短刀を突き立て、警察に引っ張って行き、数日、留置した。
 『リオ・デ・ジャネイロ州日本移民一〇〇年史』という書物がある。(以下、リオ一〇〇年史と記す)
 それによると同州在住の日本人は極めて少なく、人口は推定千人足らずだった。が、ここでも家宅捜索が行われた。
 そして「日本の軍服を持っている」「日本軍の軍装の写真を持っている」「ラジオで日本からの放送を聴いていた」といった理由で軍服、写真、受信機を没収したり、当人を連行・留置したりした。
 また三月十一日、リオ市で邦人二五人が、突如、理由不明なまま、警察に連行・留置された。留置場では、多数のドイツ人と共に、定員以上押し込められた。
 寝台数も足らず、運動できる場所もなく、食事も粗末で、極めて劣悪な環境であった。
 留置された者の一部は、その後、グアナバラ湾内の島イーリャ・ダス・フローレスに送られた。ここには移民収容所があり、そこに入れられた。ドイツ人、イタリア人が一緒だった。数日から十数日、長い場合は二、三カ月間、拘留された。
 調べは、最初の形式的なそれ以外は、何もなく、やがて突如、釈放されるというオカシナものだった。
 しかし新聞は、細かく写真入りで報道、日本人警戒論を煽った。
 この連行・留置の場合は、そもそも、どういう理由によるのか、確かな説明はされなかった。されたこともあるが、お粗末極まるものだった。
 被害者の一人、浦田年春の妻登記は、次の様な証言(要旨)をしている。

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