私の回顧録=五十嵐司=(4)

 卒業生には公務員や教師、医師などが多いが中谷昇、フランキー堺、神山繁などの俳優や私の1級上下クラスの吉行淳之介や奥野健男、北杜夫、山口瞳などの文筆関係のものも結構出ている。
 校長だけは熱心なクリスチャンであった清水由松氏で、2年生の時化学の教師として東大卒業後直ぐ赴任してきた小山誠太郎先生の情熱的な講義を聴いて化学変化の面白さのとりこになったのが、わが職業人生の機縁となった。
 部活では理科学部に入り卒業まで在籍した。特に植物の化学、匂い・味・色などの分野に強い興味を抱くようになり農芸化学や薬学のある上級学校への進学を決めるようになった。
 卒業時に受けた新潟高等学校や成城高等学校の受験に失敗したため1年浪人して城西予備校に通い、翌1944年(昭和19年)東京農業大学の予科に入学した。
 その頃太平洋戦争はかなり厳しい状態になっていて、それまで徴兵猶予が認められていた大学生のうち法文系学生はすべて動員され出征するようになっていた。同年5月私にも召集令状が来て、宇都宮44連隊(輜重連隊)に出頭したが化学の勉強をしていると言うことで徴兵延期が認められて帰宅を許された。
 学校では将来将校になるための戦闘訓練や軍人勅諭、歩兵操典の暗唱などもやらされたが、間もなく1年がたち終戦を迎えた。

 本籍地の高崎市の歩兵35連隊(温和な伝統の)でなくて、兵隊より馬を大事にし、無法な訓練で有名であった44連隊になったのは、そんなことは知らない私が徴兵検査の時希望を聞かれ「車が好きだから輜重隊・戦車隊・鉄道隊ならなんでもいい。」と答えたからであった。
 徴兵延期の理由は化学をやったものに卒業後爆薬や毒ガスなどを作らせるためであった。しかしそんなことで私たちの入学時の農大予科の入試倍率は12倍半であったから、入れたものはみんな中々の秀才ぞろいであった。

最新記事