ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(143)

 一時間くらい汽車に乗って行かねばならないこともあり、静子は学校へ行くのを断念した。
 悦子は小学校を三年でやめた。叔母の橋本多美代(二〇〇九年現在八十九歳)は、こう語る。
 「悦子は、いつも苛められて、学校から泣いて帰ってきました。私が付き添って行くようにし、雨が降っていなくても、傘を持たせました」
 この種の被害は、当時、日系の子供たちは、その多くが経験したことである。ブラジル生まれで、国籍を持っていても、敵として扱われた。
 橋本自身、夜、自宅に石を投げ込まれ、昼間「オ~、ジャポネス…云々」と罵られた。
 他所の日本人の家が押し入られ、モノを奪われたという噂も耳にした。
 危険を感じたため、白石一家は一時、疎開した。マリリアの郊外に在った昭和植民地で、大きく農業をやっている親戚がいて「大事が起こる前に、疎開しなさい」と言ってくれたので移ったのである。
 マリリアは、ポンペイアに比較、安全だった。(市長が、日本人保護策をとっていた)
 その時のことは、悦子の記憶では、こうなる。
 「日本人が殴られた。危ない、殺される…と年寄り、女、子供は何家族か、まとまって逃げることにしました。私は、身につけられるものは全部つけました。
 皆で一旦マリリアの街へ行き、知合いの時計店に泊まりました。
 床にコルションを置き、毛布だけで寝ました。ひとつのコルションに何人もの割合で寝ました。
 次の日、カミニョンに乗って、昭和植民地へ行き、倉庫の様な所で暮らしました。三家族が一緒でした」
 やがてポンペイアの空気が落ち着き、大事は起こりそうもないというので戻った。

 記事の捏造も

 策動は、新聞紙上でも、増々盛んだった。それまで、新聞は、日本人がスパイ容疑で連行される度に、煽情的に報道していたが、さらに全くの捏造記事を紙面に載せる様になった。  
 以下、岸本書から抜粋したその事例の要旨である。
(その一)
 霧深きコチア街道を、野菜を満載せる大型貨物自動車が三台、サンパウロに向かって行くのを、折柄、警戒中の警官が停車を命じ、取り調べた処、野菜の下に多数の武器弾薬が隠匿されてあったのを発見した。
(その二)
 パウリスタ線マリリアの日本人銀行支店長が、ブラジル人預金者に対し支払いを拒否したため、群衆は激昂、銀行を襲撃せんとした。が、警官に阻止され、その目的を果たさなかった。支店長は重傷を負った。
(その三)
 北パラナのコルネリオ・プロコピオで、日本人の一隊が同町の商業銀行を襲撃した。が、数名の者が射殺されたので、その目的を達しなかった。近くまた大々的な襲撃が繰り返されるものとみられ、同地では異常な緊張裡に水も洩らさぬ警戒網を張っている。
(その四)
 ノロエステ線の日本人植民地で就働しているブラジル人カマラーダで行方不明になる者が多く、多分殺害されたものと思われる。
 居残れる者は身の危険を感じ、着のみ着のまま付近の町に逃れ者も多い。
 今やブラジル下層民たちは、自分の国に居住しながら、日本人集団地では生命の保証が得られなくなった。  (以上)
 なお、右の(その一)には「日本人」の文字はないが「コチア街道」の文字があり、日系のコチア産組の組合員の出荷光景を連想させるに十分である。
 これらの記事の内容は総て、読者が日本人なら馬鹿らしくなるほど幼稚な捏造であった。「あり得ない、でたらめ」なことだった。
 非日系人でも、多少の教養があれば、信じなかったであろう。しかし庶民の間では、それを読み、あるいは口伝えで聞き、信じ、日本人に対する感情を悪化させる者も少なくなかった。
 半田日誌。
一九四二年。
「三月二十四日 河合君が…(略)…私に示したのは…(略)…リオのジョルナル・ド・コメルシオの日曜版であった。それには、日本人の第二世がブラジルの政府にあてて、日本人の内情、特に聖市内に於ける軍事組織について、こまごまと内通した手紙であった…(略)…これは巧妙なデマだなと感ずる」
 新聞の捏造記事については、岸本書は「こうした報道や巷の流言蜚語の出所について、日本人の某方面で探査したところ、ことごとくアメリカ領事館から出たことが判明した」と記している。
 なお「アメリカ領事館」は「アメリカ総領事館」であろう。当時、サンパウロ市に在った米公館は総領事館である。

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