その後も、新聞の荒唐無稽の記事は一段と大仰なモノになって行った。
例えば「二万五千人からなる日本人の五列部隊が存在し、武器弾薬を隠し持っている」とか「水源地の近くに日本人を住まわせておくのは危険だ」といった類の内容であった。
「三〇万の日本人が、軍事拠点を占領して、対ブラジル反抗運動を起こしている」などというモノもあった。
ブラジル中の日系人全部でも二十数万という時代である。でたらめも度が過ぎる内容である。
既述の総領事館の警告文にある様に、米英の狙いは、こういう捏造記事で流言飛語を拡散し、一般ブラジル人の間に反日感情を広め高めることにあった。
暴動
その結果であろう、一般人の暴行は、規模を拡大、暴動に発展していた。
三月七、十二日、大西洋上に於いて、またブラジル商船が撃沈された。すると十二日リオ市で、群衆が繁華街のドイツ人の商店を襲撃した。
横浜正金銀行にも投石した。
そのほか、アチコチで枢軸国人の店や住宅が暴動の被害を受けた。
その被害者の一人川田ゆきは、リオ一〇〇年史で、要旨こう語っている。
「私たちの洗濯店は、路面に面していました。
すぐ上の階にユダヤ人夫婦が住んでおり、中心街に店を持っていて、その日はそちらに居たのですが、おかしな動きがある、と電話で知らせてくれました。
それで急いでシャターを下ろし、三階の住まいに避難しました。中学生が石を投げました。が、シャッターは、ビクともしませんでした。
そのほか、新聞を買いに行った時、首を絞められそうになったり、キンタ・コルーナと言われたりしました。
被害は、その程度でしたが、困ったのは、お客が自分たちの衣服が破られるのではないか、と心配、客足が遠のいたことです」 (キンタ・コルーナ=スパイ)
別の場所では、枢軸国人の住宅や店が群衆に襲われた。その被害者、亀井紹によれば、暴徒はイタリア人の靴店のショーウインドウを割り、靴を盗んだ。その後、亀井の家に向かってきた。
この時、日ごろ懇意にしていた軍人が軍服を着、剣をつけて駆け付け、ピストル片手に入口に立ち、
「この家の日本人は、君らも知っている通り、何も悪いことはしておらず、疑わしい者でもない。それでも君らが襲撃するというなら、このピストルが火を噴くゾ」と威嚇した。
暴徒は勢いを失い、退いて行った。
亀井は(小さな家に妻子三人を抱え、襲撃されていたら、どんなことになっていたろう)と、その軍人の友情が嬉しく涙が止まらなかったという。
沢村という家にも暴徒が押し寄せた。窓ガラスは割られ、ピアノは投石で傷ついた。幸い侵入はされなかったが、夫人と子供はショックで蒼白な顔をしていた。
さらにまた別の場所では、暴徒がドイツ人の工場を襲い、機械を破壊した。日本人のボタン工場にも投石した。
リオの暴動から1週間後の十九日、パラナ州の州都クリチーバで、大規模な暴動が発生した。
約一万の群衆が、市の中心部の広場に集まって気勢を上げた後、枢軸国人の商店、銀行、工場などを襲った。
食糧品店を営んでいた東野(ひがしの)家の場合も被害を受けた。
その家族、光信さんは未だ十四歳だったが、店の商品が略奪されるのを、中二階から目撃していた。
それから七二年後の二〇一四年、光信さんは八十六歳になっていたが、その時のことを鮮明に覚えていて、筆者に生々しく話してくれた。
「夜十一時頃から暴徒二百人くらいが襲ってきました。袋入りのメリケン粉、砂糖、米、フェジョン、すべて奪って行きました。
街灯が少ない薄暗い道を彼らが担いでゆく袋の白い色が目に残っています。
警官は、騎兵が五十騎くらい来ていましたが、遠くから観ているだけで、略奪を止めようともしなかった」
これらの暴動は、ブラジル商船の撃沈事件がキッカケになって自然発生的に起きた、という一面もあったであろう。
しかし右のクリチーバの場合の様に一万もの群衆が、ある日、ある時刻、ある場所に突然に蝟集、枢軸国人の事業所に直行し、襲撃をするなどということは、自然発生だけではあり得ない。
誰かが日時、場所を指定し、集合する様に手を打ち、襲撃目標に誘っていた筈である。
騎兵隊が略奪を止めようともしなかったというのもオカシイ。裏に何かありそうだ。
この暴動は、米英の策動によるものであった臭いが濃厚である。(つづく)