私たちのブラジル志向の動機になったのは前に述べた父の満鉄時代からの親友の上塚司氏(自民党衆議院議員でアマゾン移民導入者)との長い間の付き合いが第一で、それに上記の宮坂氏、そして戦時中、上海の陸軍経理部を通じて親しかった兼松商事の関係の広川郁三氏(ブラジル兼松社長、サンパウロ日本商工会議所会頭)とのつながりもあったからである。
私の呼び寄せ手続きをしてくれたのは広川氏と親しい羽瀬作郎氏(羽瀬商会、アストリア輸出入会社経営者)であった。
(4)ブラジルへ移住
ブラジルへの渡航は横浜港からで1955年(昭和30年)の1月28日のよく晴れた日、父は餞の俳句「妖雲の吹雪も晴れて船出かな」を作り贈ってくれた。
大阪商船のアフリカ丸(貨客船1万トン)の特3(貨客船特有で客船の2等に匹敵)で漆工芸家の遠藤氏と同室であった。
2月の太平洋はひどい荒海で船は木の葉のように縦横に揺れ、乗客はみんな船酔いに悩まされた。船医までも彼の部屋にこもり切りで青い顔で苦しみ、備え付けの医薬品が殆ど棚から落下するような始末であったが、不思議と幼い子供たちは元気で跳ね回っていた。
誰も食事をするものがなく食堂はガラガラで私がたまに食べていたら事務長にほめられた。面白い事務長で船が横浜の岸壁を離れる瞬間「もう戻りたくても戻れないぞー」といってセンチになっているお客(移住者)を脅かしたり、その頃はやっていて彼の好きだった「お富さん」を船内放送で始終流したりしていたのを思い出す。
10日間揺れて着いたロスアンゼルスから先の沿岸航路は至極平穏で航海を楽しんだ。パナマ運河の見物、赤道祭、カーニヴァルなど。ブラジルでは先ずレシフェ港に停泊して貨物の積み下ろしがあり、乗客たちは市内見物などして南アメリカの空気を吸い込んだ。
3月11日、航海43日目に無事サントス港に着く。
サンパウロの生活はリベルダーデ区のトマス・デ・リーマ街(現在はミツト・ミズモト街)にある勇次の下宿に同居し11月に父母のブラジル到着まで住む。
その後はサンターナ区のジャルジン・サンパウロの貸家へ移り住んだ。
5月から勇次の上役である南銀の鷲塚時哉部長の世話でカンブシー区にあった日系の薬品・飼料製造会社である大河内薬化学研究所という会社に務めるようになった。(つづく)