ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(145)

 殺害事件すら…

 そして殺害事件すら発生していた。
 パラナ州では既述の様に、州都クリチーバの日本領事館が、一月半ばの時点で、米英の策動に関する警告書を出していた。
 同州のアサイでは、ブラ拓事務所と地元産組も、連名で警告文を総ての邦人宅に配布した。
 カマラーダの不祥事が危惧されていたのである。彼らの一部に、以前から「僅かな賃金で自分たちを使うジャポネス」に対する反感があり、不穏な放言をしていた。果せるかな、事件は起きた。
 以下は、北パラナのトゥレス・バーラス移住地の五十年史による。(トゥレス・バーラス=アサイの旧称)
 起きたのは一九四二年二月というから、かなり早い時期である。セボロン区の住人小泉徳雄二十五歳が街に買い物に出ての帰途、路上でカマラーダに襲われ、頭部を乱打された。近くの邦人宅へ避難し、介抱を受けたが、間もなく絶命した。
 これは、それ以前から、二人の間に何か揉め事があってのことかもしれない。が米英の策動によって醸し出された殺気だった空気が、そのカマラーダに乗り移っていたことは十分考えられる。アサイでは、カマラーダは危険な存在となった。
 八月、街で彼らが集団で示威運動をしながら行進、邦人を脅かした。
 翌一九四三年三月、パルミタール区の入江一が荷馬車で別の区へ用足しに出かけた途中、十七歳と十三歳の子供からピストルの乱射を受けた。弾は当たり入江は死亡した。 
 詳細については不明だが、彼らはカボクロの子供で、日本人を殺しても罪にならないと思っていたという。カボクロの間にまで浸透していた日本人敵視感が、そういう行動をとらせたのである。
 アサイでの同種の襲撃事件は、このほか二、三あった。
 半田日誌は、一九四二年五月二十三日、警官による日本人殺害事件を二件記している。
その一。
 アラサツーバの近くで、警官が、ある日本人が退役下士官であることを知り「スパイだと白状しろ」と散々暴力をふるい、死なしてしまった。
その二。
 アララクアラで、警官が最初「家宅捜索だ」といってある邦人の家に押し入り、現金を見つけ、持ち去ろうとした。父親が、それを阻むと撃ち殺した。息子が憤怒し銃を持ち出すと、これも射殺した。
 いずれも、半田は裏付け資料を明示していないが、いい加減な話を書く様な人柄ではない。それに近いことがあったのであろう。 

 堪え忍ぶ以外…

 かくの如く迫害に次ぐ迫害という大津波が襲来していた。
 日系社会は(七章で記した)四度目の危機に次いで、休む間もなく五度目の危機に見舞われていた。しかも、前四回とは桁外れの深刻さで…。
 しかし、どうすることもできなかった。
 せいぜい警戒しつつ、ひたすら堪え忍ぶ以外なかった。
 無論、この迫害の背後に、米英側の策動があることには気づいていた。
 それが組織的、計画的に行われていることも知っていた。しかし、対抗手段はなかった。
 堪え忍ぶことができたのは「日本必勝」の信念があったからである。子供の頃から、そう教育され、その信念は信仰となっていた。
「日本勝利の暁には、見返してやる、報復してやる」と歯を食いしばっていた。
 帰国し、日の丸の下で再移住するという夢もあった。
 事実、日本軍の戦勝に次ぐ戦勝の報は、東京ラジオによって伝わっていた。これこそ心の支えであった。
 ところが…である。
 一九四二年六月、日本海軍はミッドウエイで大敗北を喫した。以後、日本は降伏への坂道を滑り落ちて行く。
 しかし、東京ラジオの大本営発表は、その大敗北を伝えなかった。隠していた。以後も同じだった。日系社会はそれを知らずにいた。戦争は勝っていると信じ込んでいた。
 ブラジルでは迫害を受け、祖国からは騙されていたのだ。 
 そうした中で、まことにマズイ…マズ過ぎることが起きていた。

 交換船グリップスホルム号

 一九四二年七月二日、交換船グリップスホルム号がリオ・デ・ジャネイロに入港した。 
 この交換船というのは、戦争の開戦時、交戦あるいは国交断絶の相手国に残ってしまった人間を互いに自国へ送り返す船である。普通、中立国へ依頼、船の提供を受けていた。
 グリップスホルム号はスエーデン国籍で、米国からの日本人一、〇六六人が乗船していた。(つづく)

最新記事