ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(146)

 リオでは、南米各国に駐在していた日本の外務省の役人、商社マン、銀行員、新聞記者など三八三人が乗船した。総て日本からの派遣者であった。
 リオ一〇〇年史によれば、乗船者の人選については「本省御訓令」なるものの範囲内で、石射大使が判断したという。
移民とその子供は一人も含まれていなかった。すべて残留させた。
 しかし、そのことについて、日本政府…ということは、この場合大使館など公館のことだが、そこから日系社会への公式の通達はなかった。
 コメント程度のものはあったようだ。石射が
「大東亜戦争は、日本の勝利を以って終わるものにして、その際にブラジルは、わが二〇万邦人の安住の地になるべきものにつき、この際暫くは隠忍自重すべき」
 と言ったという。(二〇万は二〇数万であろう)
 また、他の公館は、
 「伯国の平和と秩序を尊重することを銘記し、あくまで自重し、自己のみならず、日本居留民全体の利益を害するが如き軽挙なきよう各自自戒し、尚困窮者に対しては必要なる相互救済をなし、共存の実を…云々」
 といった趣旨の説示をしたという。
 そして彼ら自身は、グリップスホルム号に乗船、帰国してしまったのである。
 邦人に対する迫害が激化していた時期である。その中で(残留邦人から観れば)日本を代表する日本人が同胞を敵中に置き捨てた形になった。
 石射はその自伝の中で、この交換船のことに少なからぬ行数をさいている。しかも、
 「待望の交換船グリップスホルム号が寄港した」
 と喜び、出港時の感動的な情景も描写している。が、残留させた同胞への思いは一言半句もない。
 「一般居留民は、日本政府の命令で詮衡外に置かれた」
 と一行で片づけ、
 「その利益保護に当たるスペイン大使を補佐するため、早尾(秀鷹)二等書記官を残留せしめることになった」
 と付記しているのみである。
 グリップスホルム号出港時、日本・日本人の権益保護は、中立国スペインのリオ大使館に委託することになった。
 グリップスホルム号に関しては、他に信じがたい事件が起きていた。
 パウリスタ新聞刊『コロニア五十年の歩み』(1958年編)によると、概略、以下の様な内容である。
 グリップスホルム号の入港の直前、サンパウロ・カトリック日本人救済会に、サンパウロのスペイン総領事館から
 「交換船には、未だ四〇~五〇名乗せる余裕があるので、拘留中の日本人で帰国を希望する者をリオに送る様に…」
 という連絡があった。
 救済会というのは、スパイ容疑などの冤罪で警察に拘留中の邦人を援助するため、前月に発足したばかりの団体である。
 設立者は渡辺マルガリーダ、石原桂造などの有志であった。
 スペイン総領事館が、そういう連絡をしたのは
 リオの大使館を経由して…であろうが、ブラジルの外務省からの通達によるものだったという。
 この時、石原桂造が、市内の移民収容所を訪れ、そこに居た邦人たちに、その旨を伝えた。 
(右記の警察に拘留中の人々は移民収容所に移されていた)
 その邦人は一〇〇人ほどであった。石原の話を聞くと、我も我もと希望者が名乗り出た。が、実際問題として、乗船まで二日しかなく、家財の整理やその他の準備ができない。ために諦める者も多かった。
 が、収容所以外からも含めて、慌ただしく四四人が諸手続きをし、当局の要求する書類に署名もし、夜行列車でリオに向かった。身も心も弾んでいたという。
 因みに、その中に群馬県人、高津注太郎とその家族がいた。
 注太郎は三十代後半で、開戦まで、バウルーで製靴業を営んでいた。 仕事は順調で職人を九人使っていた。
 祖国日本の戦争の成行きは、いつも気にかけていた。米英側が捏造ニュースをばら撒くなど色々のことをしているという噂も耳にしていた。
 自分たち家族に何か禍が降りかかってくるとは思わなかったが、注意はしていた。
 ある日、警察から出頭命令がきた。不吉な予感を抱きながら行くと、自分にスパイ容疑がかかっているという。全く身に覚えのないことだった。
 後で判ったことだが、密告があったという。
 密告者は隣家の住人で、ミナス州出身のブラジル人だった。その隣家は同じ棟に住んでいた。

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