始めは非常に仲良くし、日本時代のアルバムを見せたりしていた。その中に自分が予備役時代、軍服を着て現役の将校たちと撮った写真があった。
その後その隣人が、計測機が同じだった電気代の分担分を払わないので、催促をする内、仲が悪くなった。
この隣人が右の写真を根拠に「高津はテネンテ(中尉)であり、スパイに違いない」と警察に密告したという。
無論、スパイ云々は全くのウソであった。が、取り調べはなく、釈明する機会はないまま、サンパウロのDOPSへ送られた。ここでも、これといった取り調べがないまま三カ月が経ち、移民収容所に移された。
そして、ある日、石原がやってきた…という次第である。
高津は無論、喜んで乗船を希望した。が、時間的余裕が二日しかなく、四〇〇㌔も離れたバウルーから家族を呼び寄せ、しかも家財の整理や帰国準備をすることは不可能だった。
それを石原に話すと、石原がDOPSの係官に相談した。すると、バウルーの警察に連絡してくれた。
家族にそれが届いたのは真夜中で、明朝一番の汽車に乗ってサンパウロへ行け、という。夫人は、後の一切を弟一家に任せて、十五歳の長女ら三人の子供と共に、汽車に乗った。
そしてサンパウロで家族が合流、すぐほかの乗船希望者と共に、リオに向かった。
一行がリオに着くと、交換船はすでに入港していた。彼らはいそいそと乗り込んだ。出港は翌日であったから、間一髪という際どさであった。
その時、出迎えた大使館の早尾二等書記官は、
「日本は戦線が拡大し過ぎて、技術者が足りない。諸君の内、技術者はシンガポールで下船し、機械化部隊へ志願することができる」
と伝えた。
ところが、ところが…である。すでに乗船していた石射大使が、彼らを追い払う様に下船させた(!)というのだ。
理由は、その帰国に関して発行した当局の書類の内容が「国外追放処分」になっていたためであった。石射は、
「善良な日本人が、国外追放される筈はない。君たちも君たちだ。なんぼブラジル語がわからないといって、言われるままに国外追放の命令書に署名するとは何事か!」
と、強く叱りつけ、
「不当な国外追放処分は、面目上、認められない」
と下船を命じたのだ。
早尾が、
「皆、帰国を望んで、家まで売り払ってきている。たとえ名目は国外追放となっていても、本人の希望を叶えさせてやるべきではないか」
と意見したが、石射は容れなかった。
早尾は、たまりかねて、
「それでは彼らの今後について責任を負いますか」
と詰め寄った。
二等書記官といえば、地位も大使とはかなりの差がある。よく、ここまで言ったものである。
が、石射は頑固だった。
「交換船は日本とアメリカの間で取り決めたことで、ブラジル政府は何ら口を挟む権利は無い筈であり、これは御訓令に反する」
と、顕然と拒否したという。
結局、一行は下船した。
彼らは、その後、リオのイーリア・ダス・フローレスの移民収容所その他に移された。
高津注太郎も、その中に居た。一家のその後については、この章の少し先で、また触れることになる。
石射自身は、自伝で、この追い払い事件には全く触れていない。
当局が、名目を国外追放処分にしたのも、法的処理上の都合であったろう。
しかるに石射は、そんなつまらぬことを理由に冷酷な処置をとった。融通を利かすべきであったのは、早尾の意見でも明らかであろう。
先に記した日本を代表する日本人による同胞の敵中への置き捨て、それを象徴するこの追い払いは、邦人たちの心を刃物で抉る様に傷つけ、長く怨念となって残ってしまった。棄民という言葉すら生まれた。
前項の末尾で、まことにマズイ…マズ過ぎることが起きていたと書いたのは、この悲劇である。
石射は大使とはいえ、いわゆるエリート・コースを歩んだ人ではない。
上海の東亜同文書院を出、満鉄勤務の後、外務省に入り、その地位までのぼった苦労人であった。
写真を見ても野人肌という印象を受ける。しかるに、右の言動は、まさに小役人そのものの頭の固さである。
(長く役人をやると、こうなるものだろうか!)と筆者はヒヤリとした。