私の回顧録=五十嵐司=(11)

 三男はブルーノでこれは自動車マニアで自分では自動車部品の店を始めていた。長女シルヴィアは独身で計理士の資格は持っているが仕事はせず両親と同居していた。男の子はみな妻帯しリーノの妻女は有名なアデマール・デ・バーロス知事の妹であった。
 ヴィットリーノ社長の夫人はドナ・エルシリア(1892-1977)という名の温厚な婦人であった。ヴィットリーノ氏の話によると、彼の先祖はイタリア・ヴェニスの有力な貿易商で東洋の物産品をヨーロッパに輸入して手広く商売をし、豊臣時代には日本の生糸・茶などの取引の免許状を持ち、運河沿いに壮大な館を構えていた(現在の写真あり)。
 然るに突如徳川幕府が鎖国政策を採ったため商売が不履行となり倒産、没落に追い込まれた。そのことが一族をあげてブラジルに移住し、再興を図ろうとする動機となったということである
 祖父の代はミナス州に住み、父はブラジルで最初の石鹸工場を営んだが、巨大な製造釜の下部にある蛇口の詰まりを直そうとして壊し、苛性ソーダの熱湯を全身に浴び死亡したという。
 そのためヴィットリーノ氏は少年時代より働き始め、写真技師や活動写真の映写技師などをしながら、工夫して写真ラボの廃フイルムから銀の回収をしたり、歯科技工所のごみから金の回収なども行ったりしてリオデジャネイロに行き、その頃珍しかったアメリカ製フォードの自動車を購入するなど、結構青春時代を楽しんでいる。
 その他色々の冒険談など彼の一代記を聞くのは楽しいものであった。私を大変可愛がってくれ、自慢の古い切手のコレクションを見せてくれたり、サントアマーロの湖水や自動車競技場など に連れて行ってくれたり、軽食をとりながら珍しい昔話を色々と話してくれた。
 英国の宰相のウインストン・チャーチルに似た偉丈夫であったから若い時は彼の話すロマンスのようにもてた事と思う。私が入社した頃は黒色のキャデラックを愛用していて運転する姿がよく似合った。私の入社希望を受けつけたのは支配人であったオラシオ・サコマン氏であったが、彼はのちにフラッカローリの破綻に際し、すぐ独立してサウーデ区に食品香料会社を設立した。
 さて、私はフラッカローリ社に移り、大河内研究所で貰っていた給料3クルゼイロ70センターボ(当時最低賃金は2クルゼイロ30センターボ=約2万3千円)から一躍15クルゼイロとなった。

最新記事