私の回顧録=五十嵐司=(12)

 独身の下宿生活で3クルゼイロ70センターボもあれば充分余裕のある生活で下宿料を払い、毎日日替わり定食を食べ、良いタバコを吸い、毎週映画を見、床屋でさっぱりとしても幾らかお金が残ったのであるから、その4倍の15クルゼイロ貰った時は殿様気分であった。毎日昼休みには助手のエステーバンを引き連れて街中のレストラン巡りをして美味しいものを注文していた。
 エステーバンはもと警察のオートバイ隊の隊長であるがヴィットリーノ氏に心服していて、妻女の勧めもあって危険なオートバイ隊を辞め、アイスクリーム・コーン製造主任をしていた。しかし数日後、彼は「貴方は私のパパではないですから」と言って遠慮し、レストランに同行しなくなった。
 しかし、そんな私の殿様生活は僅か3か月で終わりを告げた。給料遅配が始まったのである。香料会社の経営は順調であったが、三人の息子たちの事業が素人の悲しさで、いずれも行き詰まったのである。
 魚がろくに捕れないのに2隻目の船の購入支払いをせねばならない。
 自動車部品も国産が始まる前で文字通りの時期尚早であって売れ行き不振、最も悪かったのはアパートの事業でインフレーションが始まっていたのに固定月賦払い契約で販売してしまったため建設の資材と人件費が高騰するのに対して資金繰りが出来ず、これらすべての支払いが保証したフラッカローリ香料に覆い被さり会社の命取りとなった。
 三人の息子の事業はすべて廃業、フラッカローリ香料は倒産を避けるべく会社更生法を申請する。裁判の結果幸いに認められ、5年間の猶予が与えられて月賦で借財の返済が行われるように取り決められた。
 この返済は無利子・無インフレ指数と定められたことが救いとなって逆にインフレ高進による製品の値上がりが助け、業績は徐々に回復4年半で全額返済に成功した。
 三人の息子たちは父親の事業の手伝いに専念し、家族でない私も硫酸や苛性ソーダで破けたワイシャツを着、穴のあいたネクタイを締めて頑張り、種々の原料を作り協力した。
 給料の遅れは徐々に好転したが、インフレ中にもかかわらず15クルゼイロのままで止まっていたのは仕方のないことであった。この期間中に結婚して出来た赤ん坊のカルロス功が欠水病で私立の小児科病院に入院し少しも良くならないので他の公立病院に転院しようとしても支払いが出来ず、困ってエルシリア夫人のへそくりから出してもらって助かったこともある。

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