私の回顧録=五十嵐司=(16)

 その後直ぐ、サンタマーロ区にあったカプアニ香料と契約、チエテ市に工場が移転した後も原料合成の指導を2000年10月まで合計5年間行った。
 この会社でも食品・石鹸・化粧品香料のほか、鳥獣肉副産物の発酵処理による家畜飼料用の香料の研究開発を行った。
 ここでも火・水・木の3日間市内のホテルに泊まり、色々な純ブラジル食を経験し、市外の工場に通った。
 夜間に起こった大火事などがあって生産停止、退職となり、2001年1月からはサンパウロから約30キロのジャンディーラ市の工場地帯にあるハーモニー香料で1月から同年12月まで香料分析の仕事に従事した。この間、2月からはリオデジャネイロのイグアスー香料からの委託で分析も行った。
 ついで2002年の7月からはヴィラ・マリア区にあったロイヤレ香料会社(社長:イタリア系ブラジル人ジェズース・アントニオ・パイヴァ氏)の工場で香料のガスクロマトグラフィー分析を担当、ジャンディーラ市に移転後も調合香料の開発や品質上のトラブルの解決に当たっており、やがて10年の月日を迎えるようになる。
 ロイヤレ香料は典型的な同族会社で一緒に働いている社長の子供たち(ロドリーゴ、ラファエル、レナッタ)や親類たちとも親しくし、家族的のように大事にしてもらっており、恐らくこの会社が私の最後の働き場であろうと考えると、ブラジルでの人生の始めがフラッカローリ一族との関係、そして終わりがパイヴァ一族となり、イタリア人とは結構縁が深いようで、日本人と共通する義理と人情も豊かで、私にとって案外相性が良かったのではないか、と思う。
(6)家族と住家
 着伯後1年は前述のサンターナ区ジャルジン・サンパウロ街の貸家に1年間住み、1956年にカイシャ・エコノミカ・フェデラル(連邦金融公庫)から15年月賦の融資を受けてヴィラ・オリンピア区のプロフェッソール・ヴァイーア・デ・アブレウ街に新築の二階建て6軒長屋の真ん中を購入して、そこに17年間住んだ。
 決まった金額の月賦で払うのにインフレが始まって給料が上がるので10年少しで残り分を完済してしまった。
 世間ではその頃からコレソン・モネタリア(インフレ指数による価値修正)付きの月賦返済の販売制度が始まっている。
 1959年大阪商船の新造船アルゼンチナ丸で嫁入りして来た妻、慶子は私の父方の従兄弟佐藤忠雄氏の3女で又従姉妹に当る。

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