私の回顧録=五十嵐司=(15)

 長い勤務の間では大雨による浸水で工場が湖中の島のようになり帰宅出来なくなり、次の朝池の鯉が隣の会社の庭で見つかったり、泥沼のようになった道路に漬かった、会社の通勤バスを私のトヨタジープで引っ張った思い出もある。
 1991年の5月末、65歳の定年退職となり、自分の部、部課長会、そして重役会による3回の送別会をして貰い、多くの記念品と特別退職金を頂いてジャグアレー工場を去ることになった。私の定年延長やスイスへの転勤も考えられていたそうであるが、外貨事情が好転し、廉価な外国製品が低関税で入手できるようになったため自社生産の必要が殆んどなくなり、装置はスクラップの運命になった。
 スイス本社の方もそれまで数百種作られていた原料香料もコスト削減のため、その多くが契約外注となり、私のスイス転勤の話も立ち消えとなった。
 今考えてみると、私のブラジル移住と会社勤務の時期はブラジルの国産奨励の最盛期で、自分の好きなことを夢中になって研究に打ち込んだため苦労にも感じず、作れるものは何でも作れば喜ばれ、褒められた良き時代であったと思う。

(5)技術顧問業

 ジボーダン退職の少し前からパラナ州ポンタ・グロッサ市の郊外にあるハリマ化成会社(本社:兵庫県加古川市)から技術顧問として招聘の話があった。粗製松脂(まつやに)を精製ロジンにし、製紙用の乳化糊を作っており、多量に出る副産物のテレビン油を原料とする合成パインオイルやそれから派生する香料であるテルピネオールや酢酸テルピニルなどの製造計画であった。
 要請を引き受け、週に3日働くことになった。バーラ・フンダのバスターミナルか夕刻出発する長距離バスで翌日朝ポンタに到着、火・水・木の間社員寮の社長個室を与えられて寝泊りし、幹部社員と一緒に食事、テレビを見て、電熱風呂に入って寝る生活で、清々しい緑の松林の空気を吸い、小鳥の声を聞くと長生きするような気がした。
 気候的に日本内地に近いせいか、樹木や野原に咲く雑草の花も似ていた。
 6年2ヶ月働いた後、ここでも安価なテルピネオールの輸入品に押され、それらの製造を中止、1998年の1月末に退職することになった。
 この間、サンパウロ郊外アルファヴィーレにあるフランス系香料会社のロベルテ社の顧問も勤め、93年2月から95年の10月まで合成香料の製造を指導した。

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