ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(153)

 サントス駅からサンパウロへ汽車で送られた。一昼夜、一滴の水、一切れのパンも与えられず、漸く移民収容所について出された食事は、犬や豚に食わす様なモノで、嘔吐を催した。
 被収容者は次々と送り込まれてきて、たちまち千数百人になった。
 その後、逐次、釈放されたが、皆、サントスの自宅に帰ることは許されず、すべてを失い徒手空拳の境涯となった。それぞれ知人を頼って散って行った。
 以後の苦心は言語に絶した。
 実に鬼畜の仕業にて、憤慨措く能わざる扱いであった。
 自分は、出所後、サンパウロで知人を探し、小資本を得て、非日系人の店を借り、果物や日用品を扱った。
 が、警官がやってきては果物をただ食いし、難癖をつけては、金を要求する。応じないと留置する。赤貧の極に陥り、失望、自棄に陥った」
 この追い立て事件は、サントスジュキア線沿線の邦人たちにも波及した。
 沿線の住民にも立ち退き命令が下るという情報が故意に流され、動揺した邦人たちが、財産を捨て値で売り始めたのである。
 これを姦策である、と気づいた一邦人が自主的に同胞の間を廻って中止させた。
 情報を流し、財産を買い集めていたのは、地元の区長、駅長、警官などであった。(区長=小さな行政区の首長)
 ある区長は「近く立ち退き命令が出るので、財産目録を出せ」と邦人に要求していた。
 右の姦策であると気づいた人が、命令が出る根拠を問い詰めると、新聞で知っただけで確実性は不明…と無責任極まる返事であった。
 判っただけでも、その区長は既に時価一、〇〇〇クルゼイロの豚を、三〇〇クルゼイロで買っていた。(貨幣の単位は、1942年10月、レースからクルゼイロへ改称されていた) 
 結局、沿線に立ち退き命令は下らなかった。
 沿線ではこういうこともあった。ジュキア線ペドロ・デ・トレード駅の前のバールで、邦人四人が一杯やっていた。内一人が不用意に「船が沈んだ祝いをやろう」と口を滑らした。
 この会話を聞いていた人間がいて、後で警察に通報した。スパイの嫌疑をかけられ、話した当人は一年、他の三人は一カ月、サントスの警察署に留置されてしまった。
 通報したのは、同じ邦人であった、という。

 出て行け、お前の国に!

 様々な迫害が続いていた。
 半田日誌。
 「七月十一日…(略)…昨日ジレイタ街を歩いていたら、中年のドイツ人が警事に引っ張られて行った。盛んに反抗していた…(略)…」(「警事」は「刑事」)
 「九月十日 一日として戦争のことはわすれられない」
 「十一月十六日 散髪屋で…(略)…入れかわりたちかわり、三人の刑事に見まわれた。日本語を話してはいけない、と…(略)…」
 筆者は、こんな話も聞いたことがある。ある植民地で、日本語の先生が、こっそり子供たちに教えていた。この先生を、警官が引っ張って往き拷問にかけた。先生は死んだ。植民地の人々が警察におしかけ「誰がやったのか」と追及したが、ウヤムヤになってしまった。
 最後に「戦時中の迫害」と題する小冊子の内容の一部を転載する。
 既述の救済会が、その後、運営することになった老人ホーム=憩の園=で行われた入園者の聞取り調査である。
 聞き取りは一九八六年と二〇〇六~二〇〇七年に行われた。対象者は八十~九十代の男女で、戦時中は二十代、三十代だった人々である。 
 なお、憩の園側の希望で、名前は伏せる。
 ▼男性T
 「なにせ私の居たチエテ移住地は、日本人ばかりの集団地ですから、戦争中は警察の目がきびしかった。署長がひげ面の男で、(邦人が)日本語で話をしていると直ぐ警察へ引っ張って行って、少しでも怪しいと思ったら、サンパウロの方へ送ってしまう。
 私の友人で、日露戦争に従軍して金鵄勲章を貰った人が居りましたが、家宅捜索をされ、勲章やら日本語の本を持って行かれるやら、散々な目に遭いました。
 その様な被害を受けた人が沢山おりました。私も一九三八年に日本へ帰ったということで、警察から睨まれ、スパイじゃないかという嫌疑をかけられ、警兵つきで警察へ連行されました。
 営業していた店の方には、警察から半月ごとに…(略)…お金を貰いに(タカリに)来ました。
 日本人でも警察に密着したのがいて、あの人が怪しいとか、この人がこんなことしているとか、密告する者もいて、随分、同胞をいじめました」

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