
父の姉美代の嫁ぎ先群馬郡倉淵町で育ち、満州での生活を経て戦後藤沢に住み県立藤沢高等学校を卒業、渡伯まで藤沢信用金庫で勤めていた。
結婚して授かった三人の子らはみんなこの小さな家で生まれ育った。父母、未婚の頃の弟勇次も同居で総勢8人が80平米足らずの家に住んでいたわけである。
長男のカルロス功は1960年8月、長女のリリア由莉は1963年の7月、次男のリカルド康雄は1967年の6月の出生である。
この家に17年間、1973年にブタンタン区の家に移るまで住んだ。
功はこの家から建築予定のブタンタンまでの中間点にある公立の有名校コスタ・マンソ校を選んで入学し、卒業後USP(サンパウロ大学)工学部電気工学科に進んだ。
由莉と康雄はその後ブタンタン区に引越し後、近くの公立学校へ転・入学した後USP化学部及び工学部電気工学へと進み、それを望んでいた父保司の夢を果たせた。
なお、ヴァイーア・デ・アブレウ街の家の直ぐ近くには、天然香料を製造しているドイツ系のジールベルゲル香料会社があり、風の向きでは時おりユーカリの匂いを放っていた。
ブタンタンのヴィセンタ・ドミンゲス・アイレス街の名は土地を分譲したポルトガル人小牧場主の妻女の名前で道路名説明によれば古切手蒐集家とある。1アルケール(2,4ヘクタール)の土地で幾頭かの牛を飼っていたが、妻に先立たれて土地を分割し50区画にして売りに出したものであった。
ジボーダンのあるジャグアレー区に隣接し、自動車で7分の距離で、USPの裏門の前であるので学校好きの父も大乗り気で賛成、入金10%残り100回払いと販売条件もよいので2区画合わせて約550平米を購入した。1ヶ月内に完売した由である。
私はこの土地を何年か放置しておき、水道、街路灯、本式アスファルト舗装などができ、周りに家も建ったので建築を始め、1973年に竣工し引越しをすることが出来た。建坪250平米で以前の家の3倍の広さとなった。
USP新校舎の建築の進捗振りを見に散歩するのを楽しい日課にしていた父は1978年夏、猛暑の日、新キャンパスを散歩中に亡くなったが、その7年後の1984年冬には、孫たちに日本語の勉強を教えていた母も共に88歳の年齢で亡くなり、郊外のパース墓地で永遠の眠りについている。(つづく)