ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(154)

▼女性N
「レジストロに住んでいました。随分と迫害されて死ぬか生きるかでしたよ。牛、豚、なんでもと(盗)って行ってしまう。外人(非日系人)が農園を荒らしました。野菜も食べ頃になると、全部、とって行ってしまう。
 街に買い物に出れば、足を引っ掛けたり、石を投げつけたり。でも買い物には行かにゃならんし…。泣いても泣ききれなかったヨ。
 日本語で話をすれば、監獄に入れられた。皆で寄り集まって、しまいには何もせずにいたネ。やけくそになって何もしなかったネ」(監獄=警察の留置場のこと)
▼女性F
「戦争中はサンパウロに居ったよ、うちに刑事が六人も来たヨ。もう全部調べたの。日本語のものがあったら全部とられたヨ。でも私は丁度、学校を卒業していたから、日本語の本なんか無くてもよかったヨ。隣りのバアさんは、捕まえられたヨ、あんまりでしゃばるから」  
▼女性I
「勉強した(教養ある)人はそんな失礼なことはせんけれど、カボクロが『出て行け、お前の国に!』なんて言うの。それも子供が言うの」 
       (以上)
 この章は、この辺で一区切りつけることにする。但し記述したのは生活面での受難で、しかも筆者が蒐集できた事例だけである。他にも無数のそれがあった筈である。
 また、これ以外に経済面での迫害があった。次章で記す。
 問題は、被害者が、その無念さを持って行く先がなかったことである。
 あるとすれば、戦争を起こした日本政府であるが、その出先公館…つまり大使館や総領事館、領事館は総て閉鎖され、大使、総領事以下、日本からの派遣者は、交換船で帰ってしまっていた。ただ一人の二等書記官を除いて。
 終戦七年後の一九五二年、日本とブラジルの国交は回復された。公館も再開された。
日本政府・公館代表は一〇年前に同胞を置き捨てた形になったことを、謝罪すべきであった。が、しなかった。迫害の被害調査も行うべきだった。部分的にはしたかもしれないが、総合的には、されなかった。
 戦後七十七年経った、筆者がこの項を記している二〇二二年現在に至るもそうである。(つづく)

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