
戦後4年も経った1949年まで強制収容
「カナダでは日本移民とその子孫は、1942年から1949年まで強制収容され、その間、土地や財産も全て失いました。1949年にようやく収容所から出されて、元の場所に戻った時、何もなくなっていたことに愕然としました」-25日、史料館研究スペースで記者会見が行われ、地理学、地政学、人種・ジェンダー研究を専門とする日系カナダ人大学教授のオードリー・コバヤシさんから、その説明を聞き、思わず息を呑んだ。
ブラジルでもサントス強制立ち退きなど戦争中の政府からの迫害は事欠かない。だが、2世も含めて皆が終戦後4年も経った1949年まで強制収容されて、政府によって勝手に土地を売られ、財産を奪われたという史実は、世界の日本移民史上最悪といって良い出来事だ。
今まで米国日系人が戦中に強制収容所に入れられた件などは日本でドラマにもなっており有名だが、カナダの日系人の迫害に関してはあまり知らなかった。20年ほど前から、日系カナダ移民の二世を中心とした戦前の野球チーム「バンクーバー朝日」の話が漫画や映画で有名になったが、それ以外はあまり大きく取り上げられてこなかった。
コバヤシさんは「Past Wrongs Future Choices(過去の過ち、未来の選択)」プロジェクト(https://pastwrongsfuturechoices.com/)のプロジェクト・ディレクターを務める。これはビクトリア大学のアジア太平洋イニシアティブセンターが進める、日系移民への人権侵害の歴史を検証するものだ。ともに記者会見に臨んだのは、阿部健治マイケルさん、カナダの日系文化センター・博物館の館長の梶原シェリ忍さんだ。
同プロジェクトの最初の7年間は、カナダ国内の事例調査を行なって足元を固めた。現在は第2段階として次の7年間の3年目に入ったところで、ブラジル、米国、オーストラリア、日本もパートナーとなって各地の事例を調べている。
そのブラジル編として25日に、聖市のブラジル日本移民史料館で特別展の開幕式が行われた。今後カナダ、米国、オーストラリア、日本でも順に調査や展示が行われる予定だという。
「Past Wrongs Future Choices」プロジェクトとは
同プロジェクトサイトには、次のような説明文がある。
《日系人は20世紀初頭、南北アメリカ大陸や太平洋沿岸諸国に定住しました。人種差別の逆風に逆らって、彼らはコミュニティを築き、機会を求めました。そして1940年代の危機において、彼らの人生は打ち砕かれました。世界中の同盟国において、罪のない日系市民は――彼らの忠誠心は不可解とされ、権利は奪い去られるものとされ――外国の脅威と偽って結びつけられ、政府の登録簿に載せられ、一斉検挙され、投獄され、そして国外追放されました。
この歴史は現代を象徴しています。国家安全保障上の懸念は依然として人種差別と絡み合っています。一部の人々の人権と公民権は、依然として他の人々よりも重視されています。私たちは人種差別と闘い、より公正な社会を目指して努力する中で、歴史から学ばなければなりません。
オーストラリア、ブラジル、カナダ、日本、そしてアメリカ合衆国のパートナーは、共にこの歴史を語り継ぐことを約束しました。移民、人種差別、そして安全保障といった現在の課題は、世界規模のものです。私たちがどのようにしてこの状況に至ったのか、そしてどのように新たな道を切り開いていくのかを理解する上で、一般市民の知識もまた不可欠です》
移民の人権が蔑ろされがちな現在の国際的な時勢に立ち向かうように、最も辛い歴史を体験したカナダ日本移民移民の子孫ら日系人が、このような動きを主導したことは、興味深い。
折しもブラジルでは昨年7月、奥原マリオ純さんとブラジル沖縄県人会が旗振り役となって、戦中戦後の日本移民迫害に対する政府謝罪を得るに至った。当地の日系人によるこの種の運動は全く初めてであり、何か不思議な因縁を感じる。

移民100周年機に謝罪請求運動盛り上がる
全カナダ日系人協会サイト(https://najc.ca/)によれば、最初の日本人移民は、1877年にブリティッシュ・コロンビア州ニュー・ウェストミンスターに到着して定住する永野萬藏だから、明治維新の9年後、ブラジル移民よりも30年も早い。
最初から人種差別が強く、大戦期にはそれが最高潮に達した。《カナダ連邦政府は1941年12月8日に開戦した太平洋戦争を「日本人問題」を除去する良い機会と捉え、1942年1月8日、戦時特別法を発令して日系カナダ人から市民としての権利を剥奪し、連邦政府に無制限の権力をあたえた。また戦時特別法による連邦政府の政策に市民は裁判で争うことが出来なかった。日系カナダ人は敵性外国人と分類され「日本人を祖先に持つ人」と一括された》とある。
中でも、日本移民の大半が集中した太平洋岸地域ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)では過酷だった。《1942年2月7日に連邦政府は内閣条例第365号を発令してブリティッシュ・コロンビア州本土の西海岸から100マイル以内を「保護地区」と定めた。ブリティッシュ・コロンビア州公安委員会と連邦政府の機関にこの保護地区から日本人を祖先に持つ人をすべて排除する権限を与えた》
さらに《強制収容所はブリティッシュ・コロンビア州の内陸部に作られた。収容所は急造の粗末な建物、テント、もと鉱山町のゴーストタウン、廃屋などで、数家族が一つ屋根の下で過酷な生活を強いられた》
それまでに営々と築いてきた財産は、強制立ち退きさせられた後、勝手に売却された。《あとに残された日系カナダ人の財産はトラストとして保持されるべきものだったが、1943年1月19日に連邦議会を通過した内閣条例第469号は、連邦政府が財産の持ち主の承諾なしに売却する権限を与えた。1945年12月12日に行われた連邦警察の忠誠心調査は、ブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人をすべて排除することを保証した。日系カナダ人への最後通告は、ロッキー山脈の東への移動か、日本への追放である。この移動制限は、その後、4年も続き、1949年4月1日まで日系カナダ人は西海岸に戻ることを許されなかった。同じく、日系カナダ人が連邦政府の選挙権を得るのも1948年6月、ブリティッシュ・コロンビア州の選挙権を得るのも、1949年3月31日になってからであった》と同サイトには記されている。
これに対して日系カナダ人から連邦政府に対し戦時措置に対する謝罪賠償を求める運動は、移住100周年を迎える1977年の前から盛り上がったという。全カナダ日系人協会(NAJC)は当時のアート・カズミ・ミキ会長(在任1982-1992年)を中心粘り強く要求を続けた結果、1984年に就任したブライアン・マルルーニー政権との交渉により、1988年9月に合意(リドレス合意)を達成した。マルルーニー首相は、議会において戦時中の日系カナダ人の扱いにつき公式に謝罪した。

2世まで強制収容、強制帰国させられる
コバヤシ教授によれば、1942年時点で強制収容された日系人は2万2千人で、75%はカナダ生まれ2世だった。1946年には4千人以上が日本に強制帰国させられたが、その半分以上が2世だったと言う。日本語も喋れず、行ったこともない〝祖国〟に強制的に送られるとは、さぞや無念であっただろう。1949年以後、日本から2千人ほどがカナダに戻ったという。国籍があっても「敵性国人」として扱われるのは、まさに人種差別そのものだ。
阿部さんは「とにかくBC州政府が一番ひどく、州政府として謝罪したのがようやく2012年、賠償金に至っては2022年と3年前です」と振り返る。現在の日系カナダ人は計9万人ぐらいで、大半が4〜5世世代になっているという。コバヤシさんは「2世の95%は日系人同士で結婚した。1、2世は苦労しても大学進学は叶わず、だから1949年までは日系人の医者も弁護士もおらず、医療面でも法的にも守られなかった。この当時を知る2世らは日本語を使わず、ひたすらカナダ人になろうとしました」と説明した。
加えて「3世の95%はカナダ人と結婚した。3世世代になってようやく大学進学が可能になり、そこでカナダ人と知り合って結婚するというパターンが多いようです。なぜか結婚相手にはユダヤ系が多いと言うのも特徴です」とのこと。

特別展「ブラジル日系社会忍耐力のルーツ」開始
このプロジェクトの第2弾の初特別展となったのは、ブラジル日本移民史料館の特別展「ブラジル日系社会忍耐力のルーツ-第2次世界大戦期におけるブラジルへの日本移民」で、25日に開幕式が開催された。
西尾ロベルト文協副会長は「私の父や祖父も戦争中に、日本語を話していたというだけで1年間も刑務所に入れられた。だが父からは『過去のことは忘れて、良きブラジル人になることに集中しなさい』と教えられ、それを実践してきた」との経験を述べ、乾杯の音頭をとったのも、実に感慨深かった。
戦争中の日本移民迫害が酷かったから、戦後の勝ち負け抗争も熾烈さを増した。同抗争が収束した時点からは、ベクトルを真逆に向けて、だけど同じ勢いを持って子孫に高等教育を受けさせて、結果的にブラジル社会への貢献を果たした。その間の辛い待遇に耐える中で、特別展のテーマとなった〝忍耐力〝が養われた。
ブラジル日系社会では人種差別に対する反発が、なぜかコミュニティの中にこもって殺し合いまでした。実に不思議な現象であり、ぜひ社会心理学的な視点から研究を進めてもらいたいものだとつくづく感じる。(深)