ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(8)

前史(下)

 大武和三郎が未だリオに居った頃のことになるが、一八九一(明24)年、日本で榎本武揚が外務大臣に就任した。その早々、省内に移民課を設置する。念願の海外発展策に着手したのである。
 この時、榎本は移住先の候補地としてメキシコ、ブラジル、その他ラテン・アメリカ諸国を上げている。
 翌年、榎本は外相を辞したが、その後、日本殖民協会を設立、外務省の資金協力を得て、海外発展策の推進を図った。協会の会員には学者や政治家が名を連ねていた。
 ちなみに日本では、明治元年からグアム、ハワイ向けの移民事業が始まり、その後、米国太平洋岸にまで対象を広げていた。しかし移民自身は殆どが帰国を予定していた。つまり出稼ぎであった。
 対して榎本はラテン・アメリカも視野に入れ、しかも永住を前提とした移民事業を構想、そのための植民地経営を目論んでいた。
 なお、この植民地とは移民の集団入植地のことで、例えば「ブラジルはポルトガルの植民地であった」という場合とは、意味が異なる。

根本正(衆議院事務局『衆議院要覧 下巻 大正九年六月』、1920年)

 榎本の同志に、根本正(しょう)という茨城県人がいた。青年期に渡米、十年後に帰国、衆議院議員となり、移民と貿易の振興……要するに海外発展策の要を頻りに唱えていた。
 殖民協会成るや、その一員となり、一八九四年、ラテン・アメリカを調査旅行、結果を外務省と同協会へ報告した。その中で「ブラジル、特にサンパウロ州は日本人の移住地として適地である」と推奨した。
 が、この時点では生憎、ブラジルは日本とは国交がなかった。翌年、修好通商航海条約が結ばれるが、互いに相手国へ公使館を開設するのは、さらに先のこととなる。
 殖民協会が選んだのは、すでに国交の始まっていたメキシコであった。二度に渡る現地調査を行った後、一八九七(明30)年、三十数名の青年を送り込んだ。しかし、この計画は数カ月で崩れた。入植した植民地の調査・選定の段階で、その業務を委託した地元の業者に騙されたのである。
 送り込まれた青年たちは筆舌に尽くせぬ労苦を味わった。彼らの胸中には、榎本や根本に対する怨念が長く残った。
 メキシコの次はペルーが対象国となった。一八九九(明32)年から移民送出が始まった。
 ペルーの場合は入植ではなく、現地の農場で働く方式であった。しかし労働条件が劣悪で、逃亡者が続出した。彼らはアンデスを越え、アマゾンの水路を経て、ブラジルに流れた。ボリビアに入った者もいた。これが、日本移民史上の悲話となる「ペルー下り」である。時期的には一九〇七年頃からで、その後十年間に四~五百名がブラジルに流入した━━と資料類は記している。

創草期(1)

 一八九七年、日本の外務省は首都リオの近くの避暑地ペトロポリスに、公使館を開設した。(リオの酷暑を避けるためで、他国の大公使館も、そうしていた)
 館員は公使以下二、三人、その家族、現地採用の雇員が数人……というささやかさであった。
 国交開始はブラジル側の働きかけによるもので、日本から移民を誘致することが、差し当たっての目的であったという。
 ところが、意外なことが起きた。開設直後の公使館自身が、日本からの移民送出に絶対反対を唱えたのである。
 何故か?
 その理由を明らかにするために、ここで━━やや冗漫になるが━━ブラジルの移民導入の略史を記しておく。後々の展開を理解する上でも、その方がよい。
 十九世紀末、この国は経済的にはカフェーが支えていた。その主たる生産地はサンパウロ州であった。カフェー園の中には、樹数が百万本単位という所も多く、その遠景は一望海の如くであった。
 この壮観さを現出させた労働力は、黒人奴隷であった。しかし奴隷制が国際的に問題化、ブラジルも一八五〇年、その輸入を中止した。(一八八八年、奴隷制そのものを廃止)
 結果としてカフェー園は人手不足となり、対策として欧州から移民を導入した。これが通称「カフェー園移民」である。
 導入は、サンパウロ州政府により政策的に行われた。
 州政界の中心勢力は、カフェーを栽培するファゼンダの経営者つまりファゼンデイロたちであった。
 州政府は、移民の船賃の一部を補助し、彼らがサントス港に着くと、サンパウロまで汽車で送った。サンパウロでは移民収容所に宿泊させ、就労先を決め、そこへ移動させた。
 そのようにして、奴隷の代用品というイメージを払拭、必要な労働力を確保しようとしたのである。(つづく)

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