《寄稿》ウクライナ戦争の時代に改めて読む=『ビルマの竪琴』上等兵の手紙に感泣=「無数に散らばった同胞の白骨を、そのままにして国に帰ることはできません」=聖市在住 毛利律子

戦場に転がる死体(Alexander Gardner, Public domain, via Wikimedia Commons)

あの映画の情景はけっして過去の出来事ではない

 先日のテレビの国際報道で、ウクライナのある若い女性が次のように発言していた。
 「ウクライナで生まれて何不自由なく育った私は、今この戦争を経験するまで、戦争というものがどういうものか全く知らなかった。大きな戦争が突然始まり、日常生活が壊されることがこれほど恐ろしいものか想像もしていなかった。前世紀の恐ろしい出来事を経験した高齢者も、何も語ってくれなかった。なぜ…もっと語ってほしかった」と涙ながらに言った。
 それを見ながら、現在もウクライナやガザの戦地には兵士や一般人の死体が累々とする地域があるとの話が頭に蘇り、『ビルマの竪琴』を思い出した。あの映画の情景はけっして過去の出来事ではない、と。
 『ビルマの竪琴』を最初に知ったのは、40年以上も前の事であろうか。市川昆監督の映画であった。黄色の僧衣を纏った水島上等兵が青いインコを肩に乗せ、「埴生の宿」と「仰げば尊し」を竪琴で奏でる。その情景と竪琴の響きが心の奥深く残って忘れられない。
 今、戦後80年を前にして、多くの戦争の記憶が語られているときに当たり、改めて、この作品を読み返してみた。

野ざらしになった数えきれない日本兵の遺体

竹山道雄(日本英語教育協会、撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons)

 作者の竹山道雄(1903~1984)は、銀行員の息子として大阪市に生まれ、幼少期は父の転勤に伴い、1907年から13年まで京城(現在のソウル)で過ごした。評論家、独文学者。1951年に東京大学教授を退官。文筆活動では、シュヴァイツァー、ニーチェ、ゲーテ等の翻訳を手掛け、特に、日本におけるシュヴァイツァーの紹介者としても知られている。
 この作品では、水島上等兵の纏う僧衣の黄色・ビルマ僧の肩に止まるインコの青、彼が首から掛けて持ち歩く遺骨箱、その中には大きな赤いルビーが入っていた。日本兵の累々と横たわる白骨など、一つ一つが非常に示唆的で印象的な色彩を以って表現され、加えて、熱帯林に響く竪琴の音色。ビルマ人との心温まるやり取り、水島の礼儀正しい立ち居振る舞いや、隊長や兵士たちの水島に対する愛情深い友情など、思い出すだけでも、胸が熱くなる。
 この作品は、戦争児童文学であるが、日本の戦後をたどる上で重要な作品として位置づけられている。
 あらすじを要約すると、次の通り。
 ビルマの戦場で敗走する日本兵の部隊の中に、音楽学校を出た若い隊長がいた。その隊長は、部下の兵隊たちに合唱を教えていた。歌うことで団結し、時には戦局を切り抜けることもあった。その部隊の中に、水島上等兵がいて、彼は自分でビルマの竪琴に似た楽器を作って器用に伴奏をするのだった。
 そんな敗走の中で、ある日部隊は戦争が終わったことを知らされ、降伏する。しかし、現地にはまだ、終戦を知らずに闘っている部隊がいる。そこで水島上等兵が、無意味な戦死を避けるように説得に行くよう命令され、一人でその地に向かう。そして残りの部隊は、南の捕虜収容所に送られることになる。
 水島の説得工作は失敗し、彼も負傷し、ビルマの僧に助けられる。傷が直って、水島上等兵はビルマの僧の袈裟を盗んで、僧の格好をしたままで、北から南の収容所まで仲間の部隊に合流するために歩いて出発する。しかし、その途中で、戦死して野ざらしになった惨たらしい、数えきれないほどの日本兵の遺体を目撃する。
 水島の帰りを待ち望む捕虜生活の隊員は、インコを肩にする一人のビルマ僧と出会い、皆、水島ではないかと思う。寺院で、ビルマ人の少年の弾く竪琴が水島の音色に似ていて、この演奏は水島でなければできない。少年は水島から習ったはずだ。水島は生きているに違いない、と思うようになる。また僧に化けた脱走兵、旧日本兵が多くいるとのうわさを聞き、水島生存の期待はさらに強くなる。
 やがて帰国の日が決まり、ここで最後の合唱の会が開かれているところに、インコを肩にのせた僧が現れた。彼は隊員との最後の別れに、自分の竪琴で「仰げば尊し」を弾いて、部隊の仲間に深々と頭を下げ、姿を消す。隊員たちは鉄条網にしがみついて、大声で、「水島、一緒に帰ろう…」と叫ぶ。
 帰国の途につく隊長に渡された水島の手紙には、この地に横たわる日本兵の遺体を見捨てて帰国できない思いが縷々綴られていた。
 その手紙を万感の思いを以って読み上げる隊長と、涙ながらに聞きいる隊員たち。
 水島の手紙には、彼の前途に待ち受けている大きな覚悟も添えられていた。

インパール作戦・譬えようのない凄惨

映画『ビルマの竪琴』(監督 市川崑、1956年、日活)ポスター

 79年前、当時、イギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指して旧日本軍が進軍し、激しい戦闘の末、インド国内だけで3万人に上る日本兵が命を落とした「インパール作戦」は、ガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦場となった。
 昭和19年3月から始まった戦闘には約10万の将兵が参加し、進撃と攻防4ヵ月の果て、作戦が失敗に終わり、その敗走は1千キロ、5ヵ月にも及んだ。3万502人が戦死し、戦傷病者4万1978人。損耗率実に72%という莫大な犠牲者を出したのである。
 その凄惨さは、犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、栄養失調、赤痢やマラリアによる体力消耗、猛烈な豪雨の中での敗走中の斃死(野垂れ死)であった。道の両側は日本兵の白骨で埋まり、兵隊たちはこの退却路を「白骨街道」、また靖国神社へ行く道だとして、「靖国街道」とも呼んだ。
 水島は、この凄惨な状態を目撃して、人生の大きな決断をする。
 イギリス人の経営する病院がある。その裏山には墓地がある。まさに看護師とイギリス人による埋葬の祈りが行われ、そこから合唱が聞こえてきた。その人々が去った後、水島はそこに行ってみた。新しい石の碑面には、「日本兵無名兵士の墓」と刻まれていた。水島はそれを見て呆然とした。
 墓地の門のあたりから「埴生の宿」の歌声が流れてきた。
   ☆
 (本文より抜粋)
 何ともいえぬ慙愧が私の体中を熱くしていました。―私があの濁流のほとりに折り重なっているものを見捨てて、そのままに立ち去ったことは、何という恥ずべきことだったでしょう。
 異国人がこういうことをしてくれているのです。治療し、葬って、その霊を慰めるために祈ってくれているのです。私はあのシッタン河のほとりの、それからそのほかまだ見ない山の上、森の中、谷の底の、このビルマ全国に散乱している同胞の白骨を、そのままにしておくことはできません!
 あの「はにゅうの宿」は、ただ私が自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心にねがうふるさとの憩いをうたっている。死んで屍を異境にさらす人たちはきいて何と思うだろう! あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげるのではなくて、―おまえはこの国を去ることができるのか? お前の足はこの国の土をはなれることができるのか?
    ☆
 今日、パソコンの検索システムで簡単にインパール作戦の歴史的な詳細を知るが、水島上等兵の慟哭に接することはできない。
 この水島の手紙を読んで初めて、戦争の凄惨の中で戦死した者、生き残った者の無念を感じることができるのではないか。

物語に登場するたくさんの名曲

 この「うたう部隊」では、葦や竹を切って穴をあけた簡単な楽器から、壊れた機械の部品を取り付けたラッパ、木の枠に犬か猫の皮を張った鼓など、バイオリンやギターまで持っていた人がいたが、やはり一番は水島手製の竪琴であった。それは、竹を曲げて、銅、鉄、アルミ化ジェラルミンの針金の弦に、低音のための皮ひもなどで作られていて、それを独学で学んで奏でる水島は名人の腕前だった。
 歌は「荒城の月」「菜の花畑」「蛍の光」「庭の千草」「夕空はれて…」「都の空、一高の寮歌」「仰げば尊し」、ビルマの民謡に歌謡曲など、数多くの歌が歌われ、主題曲は「埴生の宿」となっている。
 これらの歌の中に、それまで日本の歌と思って何気なく歌っていたのが、イギリスやアイルランドの民謡であったことを知った隊員たちは、そのことをとまどうことなく歌い上げる。それは敵味方、人種の違いを乗り越えて、イギリス軍との合唱になっていくのである。
 この作品は、音楽も一つのモチーフにして展開している点が、「児童文学の質と地位を高めた異色ある作品であり、国境を越えた人類愛をうたいビルマの風俗なども面白く描かれている」という評価を得て、毎日出版文化賞(1948)を受賞し、芸術選奨文部大臣賞(1951)も受賞した。いまだに読み継がれているロングセラーである。

この物語のモデル

『ビルマの竪琴』(竹山道雄著、新潮文庫、1959年)

 この物語の水島上等兵のモデルと言われた人物がいた。その人は中村一雄氏(1916年―2008年・享年92歳)であった。13歳で仏門に入り、38年福井県の永平寺で修行中に召集された。中国、東南アジアなどを転戦した後、ビルマ(現ミャンマー)で捕虜となり、終戦を迎えた。
 収容所ではコーラス隊を編成し、合唱で他の捕虜たちの心を慰め、読経で死者を弔った。この話を中村氏と同じ部隊に所属していた教え子から聞いた竹山道雄が、小説「ビルマの竪琴」を発表。映画化され、大ヒットとなった。
 中村氏は46年に復員後、1947年から1993年まで雲昌寺(群馬県昭和村)の住職を務め、1967年、自らの体験を基にした児童書「ビルマの耳飾り」で、講談社児童文学新人賞を受賞。引退後には私財を投じ、ミャンマーに死者を供養するための慰霊塔を建立。現地に小学校も寄贈した。

戦争体験者は語れない、語らない

 「戦争体験者が戦争を語らない」ということを、著者の竹山は次のように述べている。少し長くなるが、敢えて引用したい。この文章から、戦争体験者の生涯癒すことのできない心の傷の深さを、伺い知ることができたからである。
    ☆
 私は戦地から帰った人にあうと、その体験をきかせてもらいました。根ほり葉ほりたずねました。ところが意外に思いましたが、自分の体験をはっきりと再現して話してくれる人は、じつに少ないのでした。たいていの人の話は抽象的で漠然としていました。すこしつきつめてたずねると、事実はぼんやりとして輪郭がぼやけてしまうのでした。自分が生きていた世界の姿をよく見てはこずに、霧の中を無我夢中でかけぬけてきた、というようなふうでした。
 「自分の体験を他人につたえることは、これほどまでにもむつかしいことなのか。また他人の体験を具体的に知ることは、これほどまでにもできないことなのか」と思いました。
 たいていの場合に、語られるのは直接の体験ではなくして、むしろある社会的にできあがった感想でした。自分自身が味わった事実は、はっきりとした形でとらえることがむつかしく、自分の判断は何となく自信が持てないが、社会的に通用している観念の方が頼りになるのです。つまり、個人と個人は直接につながるのではなくして、ジャーナリズムその他によって公の通念となったものが、個人に伝わるのでしょう。社会通念の方が先にあって、それから個人の判断が生まれるのです。われわれの生活の中では、個人同士の横のつながりは、思うよりもはるかに希薄なもののようです。
 しかし、ビルマの戦地の様子を大変いきいきと話してくれた人もありました。残念ながら、それはあの物語(『ビルマの竪琴』)が本になったあとのことでした。」
【参考文献】『ビルマの竪琴』竹山道雄、2014年、新潮社、東京

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