日本政府は、この不始末を理由に、再び翌年の送出を不許可とした。拙いことに、旅順丸移民で竹村殖民は大きな損失を出していた。竹村一族は与右衛門に「山師水野と手を切れ」と迫った。が、この時は辛うじて、それは免れた。
政府許可も、翌々年分以降は取りつけ、一九一二年厳島丸で1、四〇〇人、一三年には雲海丸で一、五〇〇人の移民を運んだ。サントス入港の時期も早まり、騒ぎも大きなモノは絶えた。
サンパウロ州政府の「船賃補助つき移民枠」も、最初の三、〇〇〇人に引き続き、供与された。
なお雲海丸の時、水野は予めブラジルに来ていたが、そこに東京から長男の訃報が届いた。移民事業は「自分一代では仕上げは無理」と直感、後継者として外国語学校に入れて教育していたのである。その卒業直後のことであった。しかし水野、なお、やる気を衰えさせない。
竹村殖民は一九一四年までに計五回、七、六〇〇人の実績をあげた。
同時期、日本の業界では代表的な存在だった東洋移民会社も、対ブラジル事業に参入していた。
こちらの実績は一九一二年から一九一四年までに四回、計六、五〇〇人であった。
ブラジル日本移民は、皇国殖民の笠戸丸の七八一人を含め、七年間で合計一万五、〇〇〇人近くを数えていた。
やや話は逸れるが、水野は、第二回旅順丸移民を送り届けた時に、サンパウロ州政府から、日本に於けるカフェーの販売を請け負っていた。向う五年間、年三〇〇俵、無料で州政府が提供、水野が日本で市場をつくる━━という内容であった。帰国後、カフェー・パウリスタという合資会社を設立、東京ほか全国の主要都市に、カフェーを飲ませる店を開いた。これは大層、繁盛した。内幸町の自宅には書生が六、七人居た時期もあったという。
なお右の店は、その後、日本で大流行した。大正時代を象徴した「カフェー」である。
水野龍(下)
ブラジルでは、移民たちは賃仕事以外に余作に力を入れ、収入を増やしていた。余作を、就労一年以内でも出来るよう、ファゼンダ側と交渉したのである。それだけ労働がきつくなるが、無理をしたのだ。
その様にして小金が貯まると、彼らは次に自営農を目指した。蓄財して日本に帰るつもりであった。
ブラジル移民事業は、なんとか軌道に乗り始めた。しかしながら、天はなお試練を与える。
一九一四年、サンパウロ州政府が、日本移民に対する「船賃補助つき移民枠」の供与を、翌年以降、打ち切ると決めたのである。
日本移民は定着率が悪い、というのが理由であった。
ファゼンダからの逃亡は減ってはいたが、依然、続いていた。それと、自営農になることを急ぎ過ぎた。
さらに日本との距離が遠く、船賃の補助額が高くつくことが、好ましくなかった。前章で記した禁止されていたイタリア移民が再開されており、労務者を確保できるようにもなっていた。
日系社会は一九一五年以降、後続移民を絶たれることになった。これが、この国で迎えた最初の危機であった。
一方、日本では、竹村殖民商館は━━竹村家が遂に手を引き━━解散した。
最悪事態だったが、水野、これでも諦めない。南米殖民という新会社をつくり、事業を引き継ぎ、同業の東洋移民、盛岡移民会社とブラジル移民組合を組織、サンパウロ州政府に「船賃補助つき移民枠」の復活を請願したのである。一九一六(大5)年のことである。