19日に71歳で逝去
11月19日、アルゼンチン出身歌手でギタリストのグラシェラ・スサーナさんが、心停止により71歳で逝去された。音楽を通じてアルゼンチンと日本の文化交流に貢献し、多くの人々に感動を与え、レコードを百万枚以上売り上げた実質的な功績がある。しかしその背後には波乱万丈のドラマが存在した。
日本行きのきっかけは菅原洋一さん
グラシェラさんと日本の縁は、菅原洋一さんがブエノスアイレスのタンゴハウス「エル・ビエホ・アルマセン」でその歌声に出会い、「天使の歌声」と驚喜して、日本へ呼んだことから始まる。菅原さんは1970年『今日でお別れ』で日本レコード大賞を受賞した代表的な歌手だ。80年代にアルゼンチンを代表する楽団等と共演して絶賛を浴び、日本でのアルゼンチン音楽普及に大貢献した。
彼女が日本で初めて歌ったのは1971年。その圧倒的な歌唱力と表現力はすぐに日本の人々を魅了し、ドラマの主題歌などで多くの人々の心に深い印象を残した。特に日本語で歌ったことに評価が高い。その表現力は言語の壁を超えた。
華やかな日本での活動歴
『サバの女王』『時計』『アドロ』などのボレロはグラシェラさんの名前を知らなくても聞いたことがあるだろう。
1953年1月22日に生まれたグラシェラ・スサーナ・アンブロシオさんは、父親が歌手でピアニストだったことから幼少期から音楽に親しみ、ギターと歌を学んだ。姉クリスティーナと共にフォルクローレのグループを結成し、音楽活動を開始。その後、タンゴ歌手としての道を歩み始め、1970年の第6回タンゴフェスティバルで優勝し、一躍注目を浴び、多くのタンゴハウスで歌うことになる。
1971年に初訪日。1973年に発売されたアルバム『アドロ・サバの女王』は大ヒットで100万枚以上を売り上げた。アルゼンチン音楽、特にタンゴを日本に広める架け橋としても多大な功績を残したことで、1978年にはアルゼンチン最高権威である「ガルデル賞」の「黄金のガルデル賞」を受賞し、国際的な評価を得た。またアルゼンチンの最高峰歌手の一人メルセデスソーサの助言に従ったことが大きい。
グラシェラさんと菅原洋一さんのエピソード
グラシェラさんは、菅原洋一さんの後押しを受け、多くのテレビ番組に出演した。その中で、日本の早口言葉「なまむぎ なまごめ なまたまご」を教えられた際のエピソードがある。グラシェラさんは即興でギターを弾きながら「なまむぎ なまごめ なまたまご」をフォルクローレ調で歌い上げ、驚かせた。ユーモアと即興の才能を示すエピソードとして語り継がれている。
八戸市との縁
帰国後も長年日本を行き来し、各地でコンサートへ行っていた。特に青森県の八戸と縁が深かった。「八戸コンサート」では地元の人々を魅了し、2000年にはアルバム『風は南から』をリリース。その中には「八戸によする歌」や「八戸小唄」が収録されている。これらの曲は、八戸の美しさと、アルゼンチンから八戸への思いを込めた作品となっている。「日本とアルゼンチンは海でつながっている」というテーマを大切にしながら活動を続けていた。
波乱万丈の人生
輝かしい歌手歴とは裏はらに私生活は波乱万丈であった。
16歳で結婚した最初の夫からは暴力にあい、実は傷をかくしながら歌っていたという。日本の成功にも関わらず、住む家もなかった。「劇場の家」という身寄りのないアーティストが集う場所に身を寄せていた。死亡したのもその場所であった。
在アルゼンチン日本大使館新年会
2024年、在アルゼンチン日本大使館で開催された新年会でグラシェラさんの姿を見たのが最後であったと思う。その場でご挨拶したら、あの『時計』を披露してくださり、その温かい人柄に触れた。今この記事を書きながらビデオでその歌声を聞き、司会をしたり受け答えする様子を見ると、音楽を通じて長年人々と心を通わせた様子がひしひしと伝わってきた。
日本とアルゼンチンの文化交流において、グラシェラさんが果たした役割は計り知れない。
筆者が初めてグラシェラさんの話を聞いたのは谷口庄平さんからである。谷口さんは1964年第3回コスキンフォルクローレフェスティバルに招請された「Los Cantores del Sol Naciente」(日出づる国の歌い手)というトリオのメンバーとして、ブエノスアイレス空港に降り立ち、ものすごい歓迎を受けて感動したという。
あとでわかったのだが、迎えに来たアルゼンチンの若い音楽関係者の中に、まだ少女であった「あのグラシェラ・スサーナの姿があった」と谷口さんは誇らしげに語っていた。グラシェラさんには来日前から実は日本と縁があり、また音楽だけではなく友情を大切にした人であることがうかがわれる。
グラシェラさんのご冥福を心よりお祈り申し上げ、遺した音楽と友情、そしてこれからも私たちの心の中で生き続けさせることを誓って追悼としたい。
(ブエノスアイレス 11月20日記 相川知子)