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《記者コラム》ブラジルで死去が話題にならなかった=「ブラジル音楽の入り口」

2024年9月13日

セルジオ・メンデス(Instagram)
セルジオ・メンデス(Instagram)

 先週6日、米国ロサンゼルスでセルジオ・メンデス氏が死去した。ブラジル音楽に親しみを持つ非ブラジル在住者の方は「ブラジルはさぞや大騒ぎになったのでは」と思われたのではないだろうか。

 そう思うのも当然で、メンデスの存在は日本をはじめ多くの国で「ブラジル音楽の入り口」として機能している。1960年代の国際的なボサノバ・ブームや、日本の90年代の渋谷系ブーム時に同氏の楽曲は注目され、2000年代にはクラブやヒップホップ界隈からの再評価を得た。日本で彼のアルバムは、ボサノバやワールド・ミュージック界隈ではかなりの売れ筋だった。
 米国のヒット・チャートでも、メンデスはアルバムで3枚、シングルで3枚、ベストテン入りのヒットを生んでいる。これを上回るブラジル人アーティストはおらず、米国で最も成功したブラジル人アーティストとして知られている。
 彼の作品の中でもジョルジュ・ベンの名曲をカバーした「マシュ・ケ・ナダ」は、多くの人がボサノバと聞いて最も先に思い浮かべる曲の一つだし、これを収録したアルバム「セルジオ・メンデス&ブラジル66」は名盤として広く知られている。
 だが、こうした活躍にもかかわらず、亡くなった当日のブラジルの新聞サイトでの扱いは、ページの中ほどに小さな写真を掲載する程度。まれにトップ画面で扱う所もあったが、トップページ右下部分に写真を掲載したところが最も大きな扱いというほどのものだった。
 これは、ここ2年くらいのあいだに亡くなったヒタ・リーやガル・コスタがサイト画面の大半を埋め尽くしたのと比べると雲泥の差だ。
 ブラジル育ちの妻にこのことについて聞いてみると「メンデスは一度も人気の時期がなかった」という。その理由については彼女にもわからなかった。コラム子も14年ブラジルで生活しているが、確かに巷でメンデスの曲が流れるのを耳にしたことがない。
 同じ境遇にあるのはアストラッド・ジルベルトだ。あの「イパネマの娘」の英語ヴァージョンを歌った女性歌手だ。彼女の場合は、国際的な成功を鼻にかけた言動が嫌われたからとの後日談があるゆえなのだが、メンデスの場合はどうだったのだろう。
 メンデスに考えられる理由は2つある。一つは彼の米国でのヒットがブラジルで偉業として認識されなかったこと。これは1940年代に巨大な果実を満載した帽子「フルーツハット」を着用して人気を博したハリウッド女優カルメン・ミランダでも起きた。もう一つは、メンデスがブラジルに帰国せず、ずっと米国で活動したことだ。どうやら多くのブラジル人は「世界での偉業」より「身近な名声」の方を重視してしまうようだ。(陽)


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