ブラジル マンダカルー物語=黒木千阿子=(30)
後書き
「死んでもともと、これから先はおまけの人生、どうなろうと構わない、生きたいように生きてやる」
五十の坂を越えた時から、そう思うようになりました。
すると、不思議なことに、もりもりと得たいの知れない勇気が湧いてきて、老後の心配など何のその、私はふてぶてしいほど怖いもの知らずな人間になりました。
その開き直りから、バイーア州への移住は実現したのです。
当時、55才。大人しくしていた方が無難な年齢でした。
おまけに、ジェキエー市がいったいバイーアのどこにあるのかさえ誰も知らなかった。サンパウロの皆さんが目の色を変えて引き止めたのは、今思えば実に当然の事でした。
けれどもある日、私と一緒に日本語の勉強をしていた大学生たちが、ジェキエーには旅の途中で立ち寄ったことがあると言うので、どんな所だったかとたずねますと、異口同音、「あ~先生、ジェキエーは本当に良い所でしたよ。何がいいって、人間です!」
その一言で、私の決意は固まったのです。
人々の日本に対する尊敬の念は大変なものでしたが、この閉ざされた山里に生まれ育ち、そのまま外の世界を知らずに年を取ってしまった人達にとって、日本人の出現は驚きを通り越して、恐怖そのものだったようです。
「日本人が子供をさらいに来た」
「鯉幟を揚げてマクンバ(黒人の迷信的儀式)をしている」
「原水爆実験反対の署名なんかするんじゃない、今に署名した人をアメリカと一緒になって、戦争に連れて行き、このマンダカルーに恐ろしい爆弾を落とすのだろう」
などと、もう唖然とする事ばかりいうのでした。
私は、土地の人々の日本人への信頼を裏切らないよう努力する一方で、そのような偏見とも闘わねばなりませんでした。
一番こまったのは、「日本人はネグロが大嫌いで、日本に行ったネグロは、全員殺されている」
と言う、とんでもない話が広まった時でした。
どんなに打ち消しても、そう思い込んでいるお年寄りの頭の中を変えることはできません。
そうでなくても、ここは80パーセント、黒人の世界です。
もしかしたら、何の断りもなく彼等の世界に飛び込んできた白っぽい日本人を自分達の祖先を奴隷として虐待したあの白人達と同じ人種だろ思って、心を許すことができなかったのではないでしょうか。
でも、日本人として、自分の国が誤って解釈される事が好きでない私は、かんかんになって怒っていました。