ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(228)
その辺で夜を明かした。翌朝「サン・マルチーニョのカフェザールの中にある家に居る」という知らせが入り、そちらへ向かった。途中、川を渡った。
その家を見つけ包囲した。私は家の裏に廻った。表で、警官が家に近づき窓を叩いた。中では皆、昼寝をしていたらしい。
パンツ姿で窓から飛び出し、バラバラ違う方向へ逃げ出した。
最後に出てきた一人が私の前、数㍍の所を駆け抜けた。私は彼を知っていた。鉄矢カズヨシだった。追いかけた。
逃げながら、カズヨシは半ば振り返って、拳銃を二度撃った。私も追いかけながら撃った。六発撃った。カズヨシは二度転んだ。弾が当ったのか、何かに足をひっかけたのか、判らなかった。
弾が無くなり、もう六発詰めて一、二発撃った。が、それ以上は弾倉が回転せず、弾は出なかった。カズヨシの姿も見えなくなっていた。
カズヨシが撃った時も自分が撃った時も、音を耳に感じなかった。ただ煙がパッパッと…。緊張していたためだろう。
その間、自警団のほかの連中も、撃合いをしていたのかどうか…は聞かなかったが、敵は殆ど逃げてしまったそうだ。
ただ、署長が屈(かが)んで、カフェーの樹の根元から向こうを窺い、一人居るのを見つけ、カービン銃で撃った。
それが嶋野並路だった。遺体を自動車の荷台に乗せて、引き返した。我々は、その周囲に腰掛けていた。誰かが弾痕を数えると、二十カ所あった。警官が撃ったということになっている…」
なっている…という部分が意味深長である。なお、鉄矢の名のカズヨシは運良と書く。
事件後、稗田長之は、兄と共にスザノに移った。殺傷沙汰に嫌気がさしたのである。
ところが、そのスザノでカズヨシと会ってしまった。向こうも逃亡後、ここへ移ってきていたのだ。道でバッタリ出会った。ハッとした。カズヨシも驚いて、道の向こう側に移動して去った。
その後も二回、路上で出会った。その度にカズヨシは同じ様にした。
なお、十一月、ブラウーナで、戦勝派の鉄矢ジロウ(またはイチジロウ)が敗戦派によって銃殺という記録もある。カズヨシの兄弟と思われるが、詳細は不明。
呑気だった国外追放
以下は一部既述したことであるが━━四月一日事件の折の大量検挙後も━━州警察は、再び大規模な戦勝派の狩り込みを行っていた。
狩り込み総数は四月のそれを含め、幾つかの記録に残っているが、二千数百人、五千人、六千人、八千人とマチマチだ。やはり数千人としておくのが適当であろう。
また、アンシエッタへの島送りも続いていた。
十一月十七日、第二回移送。六十八人。
十二月二十日、第三回移送。二十一人。
これで計百七十人となった。
右の島送り組は、臣道連盟員や四月一日事件、六月の脇山事件、その後の事件の襲撃決行者、協力者のほか、戦勝派の諸団体のメンバーも含まれていた。
在郷軍人会(サンパウロ)、皇道実践連盟(プレジデンテ・プルデンテ)、忠道青年会(サンパウロ)、青年同志会(モジ・ダス・クルーゼス)、国粋青年団(アルヴァレス・マッシャード)、愛国日本人会(同上)、忠君愛国同志会(バストス)、精華連盟(ポンペイア)などである。
第二、三回組も━━八月の第一回組と同様━━その殆どが、国外追放を申請されていた。しかし、それが大統領に裁可されたという発表はなかった。
実は、第一回組を追放しようとした処、受け入れ国がなかったのだ。
当り前のことで、テロリストだの殺人者だのといった連中を受け入れる酔狂な国があるわけはない。
受入れを要請された米国大使が、その厚かましさに呆れ憤慨したという話も残っている。
ために大統領は以後、国外追放を許可できなくなってしまったのである。
この呑気さは、いかにもブラジルらしい。
看守が集団暴行
アンシエッタでの生活は、先に記した通り平穏であったが、一度だけ所長指揮の下、看守たちによる組織的な暴行事件があった。
一九四六年末のナタール明けのことで、突如、看守たちがマンジョカ班の十二人を丸裸にして、鞭で殴打、六十時間近く監禁した。
その間、食事は一度だけしか与えなかった。
ほかの者が、その理由を聞いても、看守たちは納得のいく答えをしない。
それに憤慨、自分たちも食事をとることを拒否した。すると看守たちが、木の棒を持って監房に入り、殴り始めた。(つづく)

