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哀悼 弟よ=パラナグア市 増田二郎

2025年10月7日

「日系ジョントラボルタ」としてモテていた頃の弟
「日系ジョントラボルタ」としてモテていた頃の弟

弟が亡くなった。

歳は82、俺より四つも若かったのに、「兄ちゃん、もう遊びあいたよ!」と言わんばかりに、病に伏したと思ったら、二週間足らずで亡くなってしまった。

肝硬変だった。

思い起こせば僕たちは、あの大戦さえなければ東京生まれの東京育ちとして、深川の下町で学校へ行き、卒業後は親父のようにサラリーマンにと、母は漠然と思っていたらしい。ですが、日本は第二次世界大戦に突入、その相手が世界一の大国アメリカだったので、軍事力や物量の差は歴然としていて、いかに精神力が優れていても、勝てるわけがなく、更に新発明の爆弾のモルモットにもされ、無条件降伏の憂き目にあったのでしたが、幸いしたのが、戦後の世界情勢でした。

それは、戦勝国のアメリカとロシアが民主主義(韓国)と共産主義(北朝鮮)に別れ、どちらが優れているか!と戦争を始めたので、味方を増やしたいアメリカは負かした日本を罰するのではなく、同じ陣営の仲間として扱い、さらにその数年後、又、同じようなベトナム戦争も起こり、結果的に日本は二回も好景気が続き、奇跡の復興を成し遂げたと世界から羨ましがられたのでした。

前置きが長くなりましたが、あの大戦下東京に残っていた祖母、父、兄達は3月10日の大空襲で灰となり、静岡県は藤枝の田舎(母の里)に疎開していた僕達、(母、姉、弟)は助かったという次第です。

更に戦後8年、戦前にブラジル移住をしていた母方の家族(祖父は3人兄弟でその家族)はチエテ移住地の成功者だったので、1953年の2月吉日、僕達4人は他の呼び寄せ移民と共に来伯できたのでした。

4月26日サントス入港、迎えに出てくれた祖父に弟と二人して「お祖父ちゃん、こんにちは。お迎えありがとう!」と、大声で挨拶したら「おお、よく来た、よく来た!」と、僕達を抱きしめてくれたのでした。

その後、チエテの駅に着き、ドラード区までタクシーで行ったのです。

祖父の家は井戸が釣瓶式でとても珍しく思えました。

その後、釣瓶で汲み上げ、橇に乗せたタンボールをいっぱいにして、馬に曳かせ風呂場まで運ぶのが僕達の日課となったのでした。

一年後、僕だけペレイラの町に出て、緒方書店の小僧として働き始めたので、水汲みは弟の仕事となったのでした。

4つ年下の弟の体格は、日本での小学3年生時代、健康優良児として表彰状までもらったほど頑健でしたが、いたずら好きだったので、ドラード区の小学校の先生達が持て余すほどの餓鬼大将となり、3年間も君臨したようです。

数年後、叔父は隣の牧場主の商談を受け入れ、その現金を持って2千キロ遠く離れた港町パラナグア市で商売を始めたのです。

僕の二年間の小僧経験がものを言い、開いた店はトントン拍子に繁盛し、叔父の役に立ちましたが、弟はまだまだ遊びたい盛りで、小僧は小僧でもいたずら小僧として、祖父のお説教を青年になるまで聞かされたのですが、その後は「二郎、これからはお前の責任で一人前にしろ!」と、バトンを投げられ、その後はこちらの責任として店でアルバイトさせ、夜間中学に通わせ結婚後には店を持たせる事が出来ました。

だが、彼が苦労して得た店ではないので、叔父や僕の店と比べ思うように儲からなかったようで、10年後日本へと出稼ぎの道を選び閉店、最初の2~3年はこちらに残した妻子に送金していたようですが、いつしかパチンコにのめり込み、送金が途絶えるや妻に三下り半をつき付けチョンガーに。

定年退職後帰国し、後は当国の少アポセンタドリアと息子が呉れる小遣いでの生活となったのでした。

生来、遊び大好きな性格で日本人同士では麻雀、外人仲間とはトランプと賭け事大好きな人生だったので、その付けが廻ってきたのか、最後は「もう遊びあいたよ」の一言を残しての大往生でした。

増田家もとうとう僕一人になってしまいました。こちら、酒なし、タバコなしの人生ですので、米寿くらいまではと思って、カラオケ、ゲートボール、日語学校と掛持ち人生を楽しみながら、妻と二人で毎日を過ごしています。



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