ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(304)
企業進出は活況、移住は衰退
さて、一九六〇年代、コロニアは再出発後の前進を続けていた。が、様々な意味で光と影が交錯した。
まず、日本からの企業進出は一九五〇年代に続き活況を呈した。ただし移住は衰退した。
進出は次の各社である。
(繊維)
都築、日紡、ユニチカ。
(電気)
東芝、松下、日本電気。
(営農資材)
三井井関農機、三井イハラ農薬、三井肥料。
(そのほか)
三菱重工、豊田通商、ヤクルト、前川製作所、協栄保険、日本冷蔵…等々。
地元資本が、新たに日本の企業と合弁で事業を起こしたケースもある。
南米銀行やコロニアの事業家が複数の日本企業とマット・グロッソ州南部に七千㌶の牧場を購入。(社名は日伯農牧開発会社。以下、カッコ内は同)
北パラナのファゼンデイロ宮本邦宏らが丸紅とカフェー・ソルーベルの生産計画に着手。(イグアスー)
農機具工場主の今井繁義が、大阪の初田工業と噴霧器の製造を開始。(ハツタ・ド・ブラジル)
大塚実ら綿花商たちのブラス綿社が、東洋綿花の出資を得て搾油事業に乗り出す。
映画館やホテルを経営していた田中義数らが、ダンボール箱の生産のため、パペロッキ社を起こす。日本の企業との提携を準備。
これら以外に、前章で名の出た山本勝造のサドキンが、レシーフェに普通電球用の別会社を登記。(サドキン・ド・ノルデステ)
日本からの進出は、地元資本との合弁を含めて六〇年代だけで、三十件以上を数えた。
地元の事業家たちが、日本の企業に頼らず独自で起業したケースもあった。例えば農業用プラスチック製品のメーカー、サンスイである。
ただ数は少なかった。
なお、一九五〇年代に進出した企業の動きが、六〇年代に入ると、一段と活気を発散させていた。
六一年イシブラスが第一号建造船の進水式を、六二年ウジミナスが熔鉱炉の火入れ式を、同年トヨタが国産自動車の発売を…という具合に。
次に移住であるが。──
渡航数は五〇年代末に年間七、〇〇〇人台にのぼった。が、これをピークに減少を始めた。
六一年は五、〇〇〇人台、六三年には一、〇〇〇人台と…つるべ落としとなった。
なお右の七、〇〇〇とか五、〇〇〇という数字は、実は五章で記した日本移民を制限する憲法の条項に抵触していた。
それを調整するための協定が、両国政府間で準備されたが、遅れに遅れ、批准は六三年となった。皮肉なことに渡航数は右の如くだった。
同年、日本政府は海協連と移住振興を合併、移住事業団を発足させた。
これは当時、ドミニカ移民の集団帰国が大きく社会問題化したのを始め、移住先国でのトラブルが頻発したため、事業の建直しを図って組織改革をしたのである。
ところが、これも効果はなかった。
移民の減少は日本の経済復興にもよるが、元々、政府に戦略が無かったことが大きい。
戦略が無いから作戦も立てられず、戦術も生まれなかった。
名将も名参謀も名指揮官も現れなかった。
だから、現地での戦況は常に生彩、艶を欠いた。兵士志願者が激減するのは当たり前だった。
貴公子ゼルヴァジオ
前記の様に、進出企業の動きは活況を呈していたが、コロニアの経済界で、従事者が最多を占めていたのは、依然、農業とその関連分野であった。
農業界の中核機関が産組であることも変わらなかった。
ただ、産組はこの頃から──固有名詞は別として──組合と表現されることの方が多くなった。本稿も、それに倣う。
その組合の中でも最大のコチアは、コロニアの城としての存在感を一段と強めつつあった。
そうした中、一人の貴公子然とした人物が、この城の「顔」として、広く知られ始めていた。理事長の井上ゼルヴァジオ忠志である。
で、改めて思い出してみると、コチアは色々と不思議なことの多い処だったが、その一つに、彼の「幸運過ぎるほどの幸運さ」があった。
どういう具合にそうだったのか、といえば。──
まず、前章で触れた様に、異例のスピード出世をしていた。
終生、下積みに終わった者から見れば、比較の対象にもならぬ雲の上の出来事であった。昇進の夢を追ってもがき続ける者には眩いばかりで、天の不公平ぶりに呆れたであろう。
井上は、さらに容姿に恵まれていた。
筆者が、初めて会ったのは一九六〇年代の末、場所はサンパウロ市内の日本風料亭であった。サンパウロ新聞の忘年会の席だった。(つづく)









