ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(323)
ガイゼルは、強引に積極路線をつき進んだ。従って七〇年代後半は、まだ前へ進もうとする空気が経済界にはあった。
日本からの進出も、数は急減したが、続いていた。
コロニアでは、コチア産組が幾つもの新しい事業に取り組んでいた。
サンタ・カタリーナ州の高原の町サン・ジョアキンで、りんご団地をスタートさせた。連邦、州の両政府の後援を得ており、組合員四十数人が入植した。
三井物産と合弁で肥料工場を建設する計画を、トップ間で合意した。
ミナス州で二つの営農団地に参加した。
一つは内務省のサン・フランシスコ流域開発計画=通称ピラポーラ=、今一つは州政府の果樹団地=通称ツルボランジャ=である。
前者は十数人、後者はそれよりやや多い組合員が入植した。
組合の新本部ビルの建築にも着手した。場所は十七章で登場したジャグァレーの所有地である。
スール・ブラジルも、それまで消極的だったセラード開発(プロデセール)への参加を決定した。
南米銀行も、七三年末の五十数支店を八十店以上に増やし、営業網を全伯的に広めた。
投資銀行ほかグループ会社を、数社新設した。
数年前に定礎式を行った新本店も完成させた。
急接近していた暗雲
七八年六月、日系社会は移民七十周年を迎えた。多くの記念行事が実施された。
最大のそれは、再度のブラジル訪問をした皇太子ご夫妻を迎えての歓迎式典だった。パカエンブー競技場に、八万余の日系人が集まり、ガイゼル大統領も出席した。
日系社会史上、最大最高といわれたこの式典を実施した七十周年祭典委員会の委員長は、中沢源一郎であった。
中沢はスール・ブラジルでは、七三年にザニニ理事長が病気で退任後、その職を継いでいた。
さらに七五年、文協会長にも就任、歴代の会長が手を付けられなかったそのビルの増築と移民史料館の開設を決定した。
しかも、七十周年祭典委員会の委員長も引き受けたのである。
中沢は、以前、ある人から、
「アナタは自分の影すら疑う」
と皮肉られると、
「イヤ、私は自分自身すら疑いますヨ」
と答えたという。
それほどの慎重居士であるという意味である。
石橋を叩いても渡らない、と評されたこともあった。
そういう話からすれば、信じられないほどの大胆さ、積極さであった。
中沢は、借金経営を嫌った。スールの貸借対照表の自己資本比率の高さを、よく誇っていた。
その中沢の要請で、パカエンブーの式典へ臨んだガイゼルは、国の借金を、誰もが驚嘆するほど膨張させていた。対外債務と国内債務の両面で…。
七〇年前後は数十億ドルだった外債は、雪だるま式に増え、七〇年代後半に入ると、二〇〇億ドル、三〇〇億㌦…とハネ上がっていた。
これは民間分も含めての数字であるが、連邦政府分が大きかった。
石油ショック以降、貿易収支は殆ど毎年、巨額の赤字を出していた。ために外貨準備が不足、資金繰りのため外国の銀行から借りまくっていたのである。
これは──例えば米国政府系の世界銀行の融資の様な──政策的な長期低利の資金ではなく、民間銀行のコマーシャル・ベースの資金であった。
利子は金融情勢により上下する。無論、高騰することもある。時に一国の息の根を止めるほどの猛毒性を帯びている。
内債も、外債と同様の勢いで増えていた。こちらは連邦政府の勘定で、歳出が歳入を大幅に上回っていた結果である。
その歳出過多がどこから来ているのか、当時は公表もされなかった。後に、連邦政府の第二次国家開発計画の支出、地方自治体(州、ムニシピオ)の財政赤字の尻拭いであったことが判る。
その内債の額は、具体的には発表されなかった。一体どの位あるのか、正確には掴めぬ程ひどい状態になっていたのだ。「外債とほぼ同額で増加中」という風に表現され続けた。
内債支払いのため、政府は国債を中銀に押し付けて、通貨に換え、資金繰りをしていた。
中銀はその国債を市場で販売した。が、市場の消化能力以上に発行するため、中銀に残留する比率が増えた。その分、国内に流通する通貨量が膨れ上がった。
さらに中銀が市場で国債を無理に売ろうとするため、金利が上昇し続けた。
この二つがインフレを昂進させ、七六年以降、年間四〇㌫を越した。
ドイツ系特有の巌の様な顔貌のガイゼルも、事態の悪化に苦しんだであろう。
しかし、どうしようもなかった。彼が推進中の幾つものナショナル・プロジェクトが稼働すれば、その輸入代替効果、輸出の伸び、国庫の歳入増により、危機をギリギリの所で乗り切れるかもしれなかった。
あるいは、さらに事態を暗転させる何事かが起きなければ、乗り切れたかもしれない。
ところが、その「何事か」が二つも起こるのである。(つづく)









