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アマゾン女性移民との出会い旅=トメアスー編(3)=大河に咲く、ひまわりの笑顔 三宅昭子さん

2026年3月31日

三宅昭子さん
三宅昭子さん

 トメアスーの文協会館には、ひっきりなしに人々が訪れる。三宅昭子さん(82歳)もその一人だった。秋田出身で、2026年3月現在は娘の一人に連れられて日本で過ごしているが、その明るく社交的な人柄は、遠く離れたアマゾンの地でも慕われ続けている。趣味の文芸活動を通じて本紙とも縁があり、初対面の記者に対しても「遠いところからよく来たね」と、あれこれと世話を焼いてくれた。

 三宅さんの歩んだ道は、激動の昭和そのものだ。生まれは北朝鮮。3歳の時、終戦とともに母に抱かれて日本へと引き揚げた。ロシア軍に連れ去られそうになる恐怖の中、栄養失調でぐったりとした三宅さんを抱える母に、行き倒れの女性が「この子を頼む」と赤子を託そうとしたこともあったという。「あの子はその後、現地の方に拾われて残留孤児になったのでしょうね」と、三宅さんは遠い目を向ける。

 「当時は攫われないよう、女性もみんな丸坊主。その癖が抜けなくて、日本に戻ってからもつい自分で髪を切っては、周りを驚かせていたわ」と、過酷な記憶を茶目っ気たっぷりに笑い飛ばす。

 帰国後、父は秋田県庁に出入りしながら農業普及員として組合設立に奔走したが、家計は火の車だった。父は再び新天地を目指すことを決意。当初はパラグアイを検討したが、博多育ちで大の魚好きだった母の一言が運命を決めた。「海の無い国は魚が高いに違いない。アマゾン川なら、きっと豊かな魚に出会えるはずよ」。こうして1962年、19歳の三宅さんは「あるぜんちな丸」に揺られ、一家でトメアスーへと渡った。

 移住後すぐに持ち上がったお見合い話。一度は断ったものの、縁あって義男さんと結ばれた。しかし、幸せな日々に暗い影を落としたのが、猛威を振るったマラリアだった。父の献身的な看病で三宅さんは一命を取り留めたが、義父、そして姉のように慕っていた同船者、さらには妹までもが命を落とした。「人は死んだらどこへ行くのか」。深い悲しみに希望を失いかけた三宅さんを繋ぎ止めたのは、残された両親への想いと、一冊の聖書だった。

 魚を愛した母もまた、苦難の連続だった。好物の干しエビからチフスに感染。風土病の象皮病を患い、太陽を浴びれば骨がもろくなるという過酷な症状に苦しんだ。薬害による骨粗鬆症で車椅子生活を余儀なくされても、母は「戦争の時よりずっといい」と笑い、ブラジルに来たことを一度も後悔しなかったという。

 母の強さを受け継いだ三宅さんは、その後、日本へのデカセギも経験。長女は日本留学を経てマナウスで日本語教師を務めた後、トメアスーで当時数少なかった幼稚園を開園した。今では町の人々から「先生」と親しまれる存在だ。

 2022年、三宅さんは自宅前の路上でバイクに跳ねられ、重傷を負った。一時は「もう歩けないのでは」と囁かれたが、不屈の精神で奇跡の回復を遂げた。今も元気に自転車のペダルを漕ぎ、大好きな俳句や教会の集まりへと出かけていく。「やっぱり、トメアスーが一番落ち着くのよね」。そのひまわりのような笑顔は、過酷な開拓史を生き抜いた誇りに満ちている。(続く、島田莉奈記者)


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