ブラジルと千玄室大宗匠=裏千家ブラジルセンター 正教授林宗円(まどか)

お盆の中日、8月14日、真夜中、日本から電話が入りました。『大宗匠が急逝された』という連絡を受け取った途端、「今年102歳にはなられたけど、まだお元気で何故?」という思いと、大宗匠との記憶が走馬灯のように駆け巡りました。
日本の各新聞社はこぞって大きく報道をして、多くの人々が偉大な文化人である大宗匠の逝去を惜しみました。
日本にとって裏千家の会員のみならず、海外にとっても、その足跡は大きいものです。
さて大宗匠は、幼名政興。若宗匠時代は千宗興。家元継承してから、千宗室、隠居してから千玄室。いくつもの名前があります。茶人千利休を祖とする、三千家の一つ裏千家の長であられました。裏千家の歴史は四百年以上に及びます。
ここでブラジルと茶道のことを、紹介しましょう。日本移民の活動が旺盛な頃、1954年にサンパウロ市400年祭の折に日本移民の文化の象徴としてイビラプエラ公園内に建築された「日本館」のオープニングに、国際生け花の大野先生と共に、大宗匠が外務省文化使節として来伯されました。
その年の10月に、同門会としてブラジルの裏千家(当時ブラジル支部)が発足。その翌年、文協が設立され、裏千家の初代支部長は、山本喜誉司氏でした。
その後、蜂谷専一、延満三五郎、山田利郎、エリソン・トンピソン・デ・リマ・JRと続き、現在は矢野敬崇が、淡交会会長を務められております。この会長職は、文協と縁が深い方が多いです。大宗匠は、この初代支部長山本氏が亡くなられた時に墓参を兼ね、来伯しておられます。
ブラジルには、四度ほど来伯。ブラジル裏千家の60周年の折は、90歳を過ぎておられるのに、背筋が伸びて矍鑠としておられ、皆、驚嘆しました。バンデランテス宮殿で60周年のお祝いをして、ハイヤットホテルで世界各国の同門による茶会を催しました。
前日は、歓迎晩餐会、最後の3日目は、モルンビーのシュハスカリアでお別れ会。その時は、アギア・デ・オーロのサンバ隊も繰り出し、華やかな会となりました。
この時の茶会は、今日庵席、北米席、メキシコ中南米席、ブラジル本席、アマゾン席、学校茶道席など6席が設けられました。海外104カ所の国から同門が集い、ブラジルの裏千家の60周年を祝いました。
あれから10年以上が経ちました。令和5年、4月に千玄室大宗匠に「内閣総理大臣顕彰」が与えられ、岸田総理大臣が、「茶道による国際文化交流を通じ、日本文化の精神を世界に広め、平和外交の推進に多大な貢献をされた」という言葉で功績を称えました。丁度100歳の誕生日の翌日でした。
では以下、私が60年近く、大宗匠と関わらせて頂いたその思い出を書きたいと思います。小さいころからお茶のお稽古がとても好きでした。大宗匠の襲名披露には、母と妹と3人で京都のご宗家にお伺いしました。咄々斎の水屋で、宗匠にお会いしたのが最初でした。
高校生頃の私を見つけられ、『どこから来たの?』と尋ねられました。私はその時「芦屋釜の芦屋です」と胸を張り大きな声で答えました。『そう、頑張りなさいね』と励ましてくださいました。
その時、(何かお茶に関係のある事、したいなあ?)と漠然と思いました。その思いが今日まで、続いているのかもしれません。こうして茶道裏千家ブラジルセンター、正教授としてブラジルでお茶を教えているのですから。
裏千家学園中は、ハワイの茶室開きや第一回セミナーにも、宗匠のお供をしました。また後にハワイ50周年の時や淡交会中南米普及50周年の折に、メキシコにも行きました。このハワイの時のブラジル勢は、イグアスの滝の大きなパネルの前で、オスカー・ニューマイヤ風の双翼の茶室を造り、呈茶しました。
この時、高円宮にお会いしたのですが、その後崩御されたので、それが最後でした。メキシコでは、映画監督のロベルト・ベハールさんが淡交会協会長で、彼の自宅にはいくつも茶室があり、石庭もあり驚きました。メキシコは旅行先としては、興味深く、とても風光明媚な場所です。当時県連会長の中沢宏一さんが、一緒に随行してくださり総勢40人の人が、メキシコを訪れました。
これらの大会では、いつも元気な大宗匠とお会いしていました。人を温かく包み、無限の抱擁力に横溢された方でした。
大宗匠が提唱された「一碗からピースフルネス」の理念を胸に、私共の役割は、これからも日本の古き良き心を伝えていきたいと思う昨今です。
世の中は 常かくのみと かつ知れど 痛き心は 忍びかねつも (よみ人しらず)
世の中は常に、そういうものだと分かってたはずだが、耐えられないくらい本当に辛い