ジレッタス・ジャー40周年=大統領直接選挙求め市民団結

40年前の1984年4月25日、下院で行われた投票で、直接大統領選挙を復活させる憲法改正案が否決された。この改正案は、20年にわたる軍事独裁政権の後、大統領選挙を民主的に行うことを目指したもので、国民からの多くの期待を背負っていたが過半数に届かず国内が失望感に包まれた。この敗北後も、大衆が民主化を求める草の根運動を続けたことで、翌85年の軍政打倒につながった。一連の出来事はブラジルの民主化の歴史において重要な役割を果たしたと25日付エスタード紙(1)が報じた。
ダンテ・デ・オリヴェイラ連邦下議(民主運動党、PMDB、現MDB)によって下院に提出されたこの改正案は賛成298票、反対65票、棄権3票、欠席113票だった。改正案承認には320票が必要だったが、22票足りず上院に回されることなく否決された。
当時エスタード紙記者として採決を見守ったリカルド・コッショ氏は、改正案は否決されたが、この問題は国を揺るがしたと見ており、「いずれにせよ、その運動は既に勝利していた。ブラジル全土の民衆、そして次第に報道機関をも動員した」と投票前に行われた大規模な大衆行動を思い起こした。
議会投票直前の1984年1月25日、サンパウロ市セー広場で30万人以上の人々が集まり、政治家、アーティスト、スポーツ選手、さまざまな職業の労働者が参加した一連の抗議集会が行われた。これらの行事は「ジレッタス・ジャー(今こそ直接選挙を)」として知られ、大統領の直接選挙を求める運動の一環だった。
国会での改正案の投票が近づくにつれて、大衆の抗議行動は勢力を増した。同年4月10日には、ジレッタス・ジャー運動の主要な行事の一つとして、リオ市中心部のカンデラリア教会で約100万人が参加した大規模集会が開催された。
最後にして最大の同運動集会は4月16日、サンパウロ市内中心部のヴァーレ・ド・アニャンガバウで開催され、150万人が参加した。
この行事に参加した人々の中には、当時コリンチャンスで現役選手だったカーザグランデ氏も含まれていた。彼は、「会場に向かう地下鉄の中で、皆が私に気付いても誰もサッカーの話をしないことに感動した。皆、同じ考えに集中していたんだ。私がサッカー選手であろうが、誰かが清掃作業員であろうが、あるいは秘書であろうがパン屋で働いていようが、そんなこと重要ではなかった。そこでは皆同じであり、同じ思いで民主主義の復活に焦点を合わせていた」と振り返った。
前出のコッショ氏は「アニャンガバウ集会は、ブラジルの歴史において独裁と民主主義の分水嶺だったと思う。その日からブラジルは民主主義を取り戻し始めたのだ」と評価した。
連邦議会で負けたことにより、むしろ国民の運動は本格化した。同改正案の敗北後も民衆の政治運動は続き、翌年の大統領選挙は間接選挙だったが野党指導者のタンクレード・ネヴェス氏が、軍政支持のパウロ・マルフ下議を大差で破ったことで軍事政権は完全に終結した。
1988年に新憲法が公布され、翌年に直接選挙による大統領選挙が復活し、フェルナンド・コーロル氏が選出された。