《寄稿》「朝起きたら虫になっていた」の意味=カフカ『変身』のリアルな解釈=介護される痛みと介護者の苦しみ=サンパウロ市在住 毛利律子
病の不意打ちは本人だけでなく、その家族も打ちのめされる。突然、体の自由が利かなくなって横たわっている自分。身体は動かないが、頭脳は冴え冴えとして、自分自身の今の状態、家族の苦しみ、周辺の人間関係が激変する一部始終をすべて見て感じ取っている。
目覚めると昆虫のような身体になっていた

チェコ出身のフランツ・カフカ(Franz Kafka 1883-1924、2024年は没後100年目にあたる)の小説『変身』は、主人公の男が、ある朝目覚めると、四肢が動かせない。身体がカブトムシのような昆虫になった。昨日までの自分ではない身体に変身していた。予想外の自分の姿に驚き震え、うろたえるところから始まる。
同時に、突然身体が変わってしまった息子を、世間から隠して介護し、世話していかねばならない家族の苦渋に満ちた日々が始まる。
これは、100年前に書かれた話という次元を超えて、それ以前にも、現在の高度医療の社会にもある、誰の身の上にも起こり得る病であり、介護する家族の物語として読んでいる。
病で身体が変わり、家族関係、社会関係が変わる
主人公は醜く変わり果てた自分の外面、家族と他人の関係の変化を詳細に観察して、自分の力だけでは、自分自身の体を支えられないことの無力感。家族に迷惑をかけることの辛さ、切なさなどの感情を縷々描くのである。
当初家族は、変身して変わり果て、傷を負い、苦しむ息子をいたわり、介護をする。しかし世間から閉鎖して、家族内だけで果たさねばならない介護が、次第に耐え難くなり、息子を非人間的な存在として疎外するようになる。
これまでの平々凡々とした退屈な日常生活の三者の関係、すなわち、個人―家族―社会の関係が刻々と崩れはじめる。主人公は、自分が次第に承認されなくなることや、存在意義を無くして自己嫌悪、自己否定に陥る。「なぜこのような身体で生きていかねばならないのか。なぜあの時死ねなかったのか。神はなぜ、そのまま死なせてくれなかったのか」
このような思いに支配された本人の遣りきれない、痛ましい苦悩は計り知れない。主人公の孤立感、無常観は想像して余りあるものがある。
作者のカフカは結核のため40歳で亡くなるが、彼は生前に作品をいくつか出版し、地元の文壇では知られていたが、死後、名声が高まった。原稿を預かっていた友人が、カフカの遺言に反して世に出した。今カフカを有名にしたのは、この友人のおかげであった。
代表作の「変身」では主人公が虫に変身するという設定であるが、それは、カフカ自身が病気で苦しんでいたこと、そして病によって社会や人間関係から孤立してしまうこと。病気、人間関係といったものは、自分ではどうしようもできないことを象徴している。
それでは三部構成の物語の流れを、つぎのように簡潔にして、辿ってみよう。
登場人物の主人公は、布地販売員の青年グレゴール・ザムザ。父親は典型的な家父長主義で家の中心にいる。息子の変身にうろたえ疲労困憊する母。バイオリニストになりたかった妹の4人家族。そして、職場の上司、家事手伝いの老婆と間借り人たちである。
グレゴールは仕事への不満や煩わしい人間関係に悶々としながら働いている。両親は商売の失敗によって多額の借金があり、それを返すまでは、嫌な仕事を辞めるわけにはいかない。それなのに、長男として家族の期待に応えられない情けない自分。そのような日常生活に、突然異変が起きた。自分の身体に起きた変身である。それは気まぐれに投げ込まれた爆弾のようなものだった。
変わり果てた自分を見て、母はへたり込み、父は泣き出す
第一部では、自室で変身した朝、グレゴールが、家族や職場の人に、この状況をどう伝えたらよいか考えている。身体の向きを変えることもできない姿勢のままで苦しんでいる。
そうこうするうちに、グレゴールの様子を見に店の支配人がやってくる。彼は、グレゴールの怠慢を非難する。グレゴールは部屋の中から弁解するが、どうやらこちらの言葉がまったく届かないらしい。彼は部屋のドアまで這いずり、ようやく鍵を開けて家族たちの前に姿を現す。すると彼らはたちまちパニックに陥る。母親は床の上にへたり込み、父親は泣き出し、支配人は仰天して逃げ出す。支配人に追いすがろうとするグレゴールだったが、ステッキを持った父から激しく叩かれ、自室に追い立てられてしまう。
自分が人間だった頃の痕跡を片付ける母妹
第二部では、その日以来、彼の世話をすることになった家族が疲労困憊していく。
グレゴールの世話をするのは妹のグレーテで、彼女はグレゴールの姿を嫌悪し怖がりながらも食べ物を差し入れ、部屋の掃除をした。日中は窓から外を眺めて過ごし、眠る時には寝椅子の下に身を隠した。ドア越しに聞こえてきた会話によると、一家にはわずかながらも倹約による貯えがあり、唯一の働き手を失った今でも1、2年は生活ができるだろうということだった。
そのうち妹のグレーテは母親と協力して家具類を運び出しはじめる。それはグレゴールにとって、自分が人間だった頃の痕跡を片付けられ放棄されはじめたことを知る。その悔しさを伝えようと室外に出る。その姿を見た母親は失神する。ちょうど、新しい職場で働き始めた父親が帰宅する。事態を見た父親は怒りに任せてグレゴールにリンゴを投げつけ、それによって彼は深い傷を負い、満足に動けなくなってしまう。
苦からの解放-突如訪れる死、変わる絶望的環境
第三部で、父親の投げたリンゴはグレゴールの背にめり込んだままとなり、彼はその傷に1ヶ月もの間苦しめられた。その間に生活は困窮する。母も妹も勤め口を見つけて働きはじめた。妹はもうグレゴールの世話を熱心にしなくなっていた。新しく年老いた大女が手伝いにきた。彼女は偶然目にしたグレゴールをまったく怖がらず、しばしば彼をからかう。家の一部屋が3人の男たちに貸し出され、このためグレゴールの部屋は古い家具を置く物置となる。
ある日、居間にいた間借り人の男が、グレーテが弾くヴァイオリンの音を聞きつけ、からかい半分居間で演奏するように告げる。グレーテは言われたとおりに彼らの前で演奏を始めるが、男たちはすぐに飽きてしまい、タバコをふかしはじめる。一方、グレゴールは彼女の演奏に感動した。音楽の癒しの力が働いたのだ。目の前で聞きたい。とうとう自室から這い出てきた。一部始終を目撃した男たちは逃げるようにして、即刻この家を引き払う。
落胆する両親に、妹のグレーテは「もうグレゴールを見捨てるべきだ」と言い出し、父もそれに同意する。やせ衰えたグレゴールは部屋に戻り、家族への愛情を思い返しながら、そのまま静かに息絶える。
グレゴールと家族の苦しみから解放される日は、これもやはり、突然やってきた。それは彼の死であった。
翌日、グレゴールは女中によってすっかり片付けられた。休養の必要を感じた家族はめいめいの勤め口に欠勤届を出し、これまで閉鎖した環境で介護してきた両親と妹は、家の扉を開け、明るい陽射しを浴びながら、全く久しぶりの散策に出かける。娘のグレーテは長い間の苦労にもかかわらず、いつの間にか美しく成長していた。両親は、そろそろ娘の婿を探してやらなければと考え、未来を想像して生きる喜びを噛みしめる。 これが、物語の全容である。
この小説を読み返すほどに、人間の病苦とそれに伴う人間関係の苦がこれほどまでに身近なこととして、実例として現代的意義を以て提示されていることに驚かされる。
人間の苦しみ=四苦八苦
仏教からきた言葉で日常語の「四苦八苦」の苦しみは、「四苦の生老病死」に伴う様々な苦の感情、まさに生きる営みの中で起きる四つの苦しみに発展して「八苦」となる。人間は生きていくうえでこれらの「苦の痛み」が必要だ、という含蓄のある教えなのである。
病人は病苦との闘いは医療に身を委ねるしかない。しかし、自分の体を介護してもらうということには感情的に辛い苦しみが伴う。
人間は互いが、人間を相手にする限り不機嫌になる。しかし、その関係を断つことはできない。「機嫌よく生きるは最大の健康法」と知ってはいても、機嫌よく病苦を乗り越えることは非常に困難なことである。
この物語で、主人公は死ぬことで苦しみから解放された。家族もまた、長く続いたであろう主人公への介護の苦しみから解放されるのである。
介護される側と介護する側の社会的取り組み

物語の「虫」が象徴する病いは、交通事故による怪我の後遺症、脳卒中、難病、高齢疾患などにより寝たきり生活となることと重なる。そしてその苦しみは、動けない自分に価値がないと絶望すること。このまま生きる人生を無意味と思うこと。病の深刻さと共に「二重の苦しみ」に苛まされることによって次第に追い詰められる自分自身と介護する側の心である。
介護される側の人々は、身体的な能力の低下、認知機能の低下、そして介護を必要とする所得格差による心理的影響を受ける。
低所得層は医療保険への加入に苦労し、高所得層は自宅で看護師や家政婦を雇うなど、所得格差が介護サービス利用にも影響を与えている。そのため、直面する状況への不安やストレスを抱え、様々な感情を経験する。それらの感情には、感謝、不満、情けなさ、孤独、そして自己肯定感の低下、さらには自己嫌悪、自己否定などの感情に常に苦しむことになる。このように、介護してもらうことへの感謝、安心感などと共に、卑屈、不安、不満、孤独などの思いが常に入り混じって、外見からは計り知れない苦しみとなるのである。
小説では家庭内での介護であったが、現代の日本では2000年に制定された介護保険法によって介護の形が大きく変わった。日本は今「介護の社会化と言われる時代」となったのである。
それは、介護保険制度が一般に広くいきわたり、「家庭内・家族が担ってきた介護」を、広く社会共通の課題として認識し、実際の介護(ケア)を担う社会的サービスが、税金と保険料を中心に拠出された財源によって、「社会全体が担っていく」ものになっているからである。
ブラジルに日本のような介護保険制度はない
ブラジルの場合、日本のような全国的な介護保険制度はないと報道されている。高齢化が進むブラジルでは国の介護保険制度がないため、介護予防に対する統一的な施策もない。民間サービスの拡大として、元気な高齢者向けの運動教室や、要介護高齢者向けのデイサービス施設は増えているが、どちらにも属さない中間層に向けた介護予防教室は圧倒的に少ない。また、国民の意識においても介護予防の重要性に関する認知度は低い。
国の社会化医療制度(SUS)も、すべての国民に十分な医療を提供できているとは言えず、医療施設の混雑や医師・ベッド不足は常に課題となっている(https://pepsic.bvsalud.org/scielo.php?script)。
さて、ブラジル社会での介護保険制度の実態がこのようなものだとしても、家族のきずなの強い移民社会での家族間介護は、どうだろうか。表面的には日本の「孤独な生活」を送る高齢者よりはまだまだ強い絆で家族や縁者から支えられているかも知れない。
カフカの「変身」という言葉は、難病や高齢者特有の病によって変わってしまう身体、その本人と家族の両者の「苦の闇」は、すべての人間社会の永遠の本題として、潜在的に存在しているのは間違いないことであろう。
ここに提示した青空文庫の「変身」は読みやすく、主人公と家族の思いが良く理解できるであろう。是非一読をお勧めしたい。
参考文献
【出典】「変身」フランツ・カフカ 原田義人訳、底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房、 1960(昭和35)年4月10日発行、青空文庫(www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49866_41897.html)